北条時宗公
仏日庵には北条時宗公をお祀りする開基廟があります。
そこの開基廟で法要をおつとめします。
北条時宗公とは、『広辞苑』には、
「鎌倉幕府の執権。通称、相模太郎。時頼の子。
1274年(文永11)元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築き、81年(弘安4)の再度の元寇もよく防御。
円覚寺を建て、宋より無学祖元を招いて開山とする。
(1251~1284)」
と解説されています。
北条時頼のあとの執権は、北条長時で、北条重時の子であります。
重時は義時の子であります。
しかし長時も一二五六年に執権に就任するものの、一二六四年に三四歳で亡くなります。
そのあとは、北条政村という義時の子が執権になります。
政村はその時には、六〇歳でありました。
当時としてはかなりの高齢であります。
そこで文永五年(一二六八年)一月に蒙古の国書が到来しました。
元寇という難局を前に権力の一元化を図るため、同年三月には執権職を時宗に譲ります。
時宗はその時一八歳でした。
六四歳の政村は再び連署として時宗を補佐します。
時宗と禅僧との縁は兀庵禅師に始まります。
時頼は兀庵禅師に参禅していました。
時頼が弘長三年(一二六三年)に亡くなると、兀庵は時頼以外に日本には禅を解する者はいないとして、宋の国に帰ろうとします。
そこで時頼の子である時宗に、帰国の意志を伝えました。
時宗は時に十三歳でした。
『円覚寺史』にはその時のことを次のように書かれています。
「あまりに幼年で、それに対して答ふる所を知らず、籌慮良久した(ためらひ思ふこと、ややしばらくあった)。
そこで兀庵は進み出て、時宗の衣服をひいて、「ねえ、どうか許して下さい」と懇願したので、時宗は、兀庵のやうな老尊宿から辭を低くして哀願されたので、その命に違ふことを恐しいことのやうに思ひ、あわててこれを許してしまつたといふ。
如何にも兀庵の老巧さに引廻された様子が記されてゐるが、幼少なのに乗ぜられて、この名師をのがしてしまったのは、時宗にとつても惜しいことであったが、この年頃にはその程度で、まだ積極的な参禪とまでは行つてゐないやうである。」
というのです。
次には建長寺を開山した蘭渓禅師にも参禅していました。
時宗が十五、六歳の頃であります。
更に文永四年(一二六七)に来朝した大休禅師に参禅されます。
大休禅師は時頼が招いたのですが、来朝は時頼の死後となってしまいました。
大休禅師は時宗に即心即仏の公案や無字の公案を与えて指導していました。
更に時宗は宋の国に使者を遣わして無学祖元禅師を招きました。
その招請状は今も円覚寺に残っています。
原文は漢文ですが、意訳しますと、
「私時宗は禅の教えに長年心を留めてきた。禅寺を建て、禅僧を安居させてきた。私時宗が常に思うことは、木にはその根があり、水の流れには必ずその源があるということだ。そこで、禅の根源の地である宋の国から優れた禅僧を招いて、この禅の教えを更に広めるよう手助けをしたいと思い、ここに詮英の二人の禅僧を遣わせる。
大海原の荒波を恐れることなく、優れた禅僧を招いて日本国に帰ってくること願うばかりである。不一。
弘安元年戊寅十二月二十三日
時宗和南」
というものです。
その招請に無学禅師は応じられました。
禅師は当時既に五四歳でありました。
弘安元年(一二七八)には蘭渓禅師が亡くなります。
その明くる歳弘安二年(一二七九)に無学禅師は来朝されました。
そして弘安四年(一二八一)には二度目の元寇、弘安の役です。
その年時宗は三十一歳でした。
その年の正月には当時建長寺にいらっしゃった無学禅師を訪ねます。
無学禅師は筆で文字を書いて時宗公に示しました。
そのときに書いたのが「莫煩悩」という言葉です。
これは「煩い悩むことなかれ」という言葉です。
時宗公が「莫煩悩とはどういうことですか?」と聞くと、無学禅師は答えました。
「春から夏の間に博多で大きな戦があるであろう。しかし、さっと風が吹いて万艦はすべていなくなってしまう。だから、時宗公は何も心配することはありませんよ」。というのです。
果たして元の大軍が襲ってきましたが、どうにかこれを乗り切ることができました。
時宗公が、経典を血書してこの国を守ろうとしたことが『佛光録』に書かれています。
次のように書かれています。意訳します。
「太守時宗公が、諸経典を血書してこの国を助け守り、国師に説法を請うた。
若しこの大事な教えを論じるなら、ただ真っ向から取り組む事が肝要だ。
若し戦いを論じるならば、絶妙な事は、その場その場で状況に応じて千変万化することだ。
金剛王宝剣のように、少しでもためらうとどこもかしこも死人ばかりになる。
帝釈天の旗のように、あらゆるよこしまな風がおそうこともない。
転輪聖王の宝珠のように、あらゆる悪毒はみな遠ざかってしまう。
百獣の王である獅子のように一度吼えると、あらゆる獣たちは息が絶える。
太陽のように、ひとたび照らすとあらゆる闇はあとかたも無くなる。
このすばらしい事は、高いといったらこれ以上高いものは無く、大きいと言ったら、これに比べる大きいものはない。
十方世界に満ちわたり、過去現在未来を貫いている。
仏法を守り、民を守って刀に傷ひとつつけずに敵を倒すことが出来る。
よこしまなものを破り、正しい道理を顕して、虎の穴にこもる魔軍を払いのける。
仏さまの力と諸天の力とともにめぐらして、王公の力と万民の力と斉しく新しい。まさにこのようなときに、凱旋の一句はどのように言い表そうか。
万人が斉しく仰ぐ処であり、一本の矢で天山を射貫くぞ。」
という内容が説かれています。
明くる弘安五年(一二八二)に円覚寺を創建します。
しかしそのわずか二年の後弘安七年(一二八四)四月四日に亡くなります。
満三十二、数え年三四歳であります。
無学禅師がその日剃髪し法衣を授けています。
法衣を授け法名を道杲と称し、法光寺殿と号しました。
そしてその日に亡くなっています。
元の使者が来た時に、十八歳で執権に就任し、二四歳で文永の役、三一歳で弘安の役と元寇を退け、わずか三四歳で亡くなったのでした。
国難に殉じたご生涯と言えます。
その時宗公を偲んで法要を勤めました。
横田南嶺