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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.04.03
今日の言葉

得ること、失うこと

得ることは失うことだと思います。

今電話をかける仕草をしてくださいというと、多くの人はスマートフォンを出して、指で操作する仕草をするでしょう。

お若い人だと片手で、親指を使って上手にやっています。

もう今や、片手で受話器をもって、もう片方の手でダイヤルを回しているようなことはしないと思います。

先日ふとしたことで、まだ私が師家に就任した頃は、黒い電話で、ダイヤルを回していたことを思い出したのでした。

懐かしいものです。

警察の一一〇番や救急車の一一九番になっているのも、ダイヤルだからこそ意味のあるものでした。

はじめに消防用の緊急電話は一一二番だったそうです。

それが一一九番に変わります。

あわてて一一一にかけたり間違いが多かったらしく、一から遠いところにある九をかけることによって、少しでも落ち着いてもらうということのようです。

そして一一〇番も同じようにできたのでした。

そうなのです。

0や九をまわすにはダイヤルでは少々時間がかかるのでした。

それがボタンに変わって、そんな意味はなくなりました。

まだダイヤルの頃はたくさんの電話番号を覚えていたものです。

お寺の電話番号や出入りのお店の電話番号はよく覚えていました。

またよくかける電話番号は、電話機のそばに書いて貼っていたりしたものです。

それから短縮番号というのが出来るようになりました。

このあたりから、番号を覚えるということをしなくなってきました。

今やスマートフォンですと、番号を意識することはほとんどないでしょう。

かつては意味もなく羅列している電話番号の数字をその相手先に連動させて記憶していたのでした。

便利になりましたが、そんな記憶する能力を失ったのだと思います。

便利さを得て、失ったものもあるものです。

思うに人類の歴史は得るもの、失うものの繰り返しのように感じます。

この頃本が読まれなくなったとよく聞かれます。

出版に関わっている人にとってはたいへんなことです。

しかし、長い人類の歴史でこんなに大量の本が出版されるようになったのは、最近のことでありましょう。

今はおよそ一年で七万点もの本が出されているそうです。

一日で二〇〇冊近いのです。

こんなことが稀といえば稀のようにも思います。

寺にいると古いものに接しているので、昔のことを思います。

私たちが勉強するのは木版本の書物です。

木の板に字を彫って、それで印刷するのです。

木版がいつ頃から出来たのかというと、およそ七世紀頃ではないかと言われています。

世界最古の書籍と言われているのが、中国の敦煌で発見された金剛般若波羅蜜経で西暦八六八年のものです。

もっとも木版で印刷されたものは、日本に古いものが残っています。

それが奈良時代の百万塔陀羅尼であります。

これは西暦七七〇年にできあがって各寺院に奉納されています。

一二〇〇年以上前の印刷物が我が国に残っているというのは驚きであります。

ヨーロッパでは、ドイツの金細工師ヨハネス・グーテンベルクが一四五〇年頃に活版印刷術を発明したことが始まりです。

中国や日本ではその何百年も前に木版印刷がなされていました。

木版本の頃は手間もかかったので、印刷される本はそれほど多くはなかったかと思います。

印刷ができるまでは写していたのでした。

本を借りて写すのです。

こういう根気のいる仕事はもうできなくなっています。

私などもまだ師家に就任した頃は、貴重な和本は前管長からお借りして筆で書き写すということをしていました。

印刷によって、多くの人に行き渡るようになりましたが、丁寧に字で書き写す根気と能力は失いました。

またもっとさかのぼると、仏教の歴史でも経典を文字にするようになったのは、お釈迦様がお亡くなりになってから数百年も経ったあとのことでした。

お経は、それまですべて暗記していたのでした。

師匠から弟子へと口伝ですべて暗唱されてきたのです。

そんな時代が数百年続いていました。

紀元前後あたりから、文字に書くようになりました。

これは多くの人に正確に伝えるという便利さを得ましたが、記憶する能力を失いました。

また文字にすることによって、論理的な思考を生み出すこともできるようになりました。

仏教では、お経を信仰するということも生まれるようになりました。

それまでは暗唱していましたので、お経が物質としてはなかったのでした。

文字になって巻物や経本になると、それを敬うようになったのです。

文字が出来るようになったのは紀元前三千年頃と言われています。

メソポタミアだそうです。

それから更にさかのぼると、言葉を使うようになりました。

言葉を使うようになったのがいつかは定かではありません。

その頃は文字に書くこともしていないので、正確なことは不明です。

数万年前でありましょう。

十万年から五万年前だろうとも言われます。

五万年ほど前にホモ・サピエンスがアフリカからヨーロッパへ進出した時期には、言葉が重要な役割を果たしていたとも言われています。

当初は身振りや手振りでコミュニケーションを取り、それが徐々に音声言語へと発展したとも言われますし、感情を表す叫び声などが、言葉の起源になったとも言われます。

言葉を使うことはとても便利です。

お互いに共通の認識を得ることができるようになります。

しかし、世の中をありのままに見る能力を失いました。

言葉による概念を得るようになりましたが、ありのままに見る力を失ったのです。

そして強い自我意識を生み出しました。

差別や区別も生み出しました。

たとえば言葉がなければ、ただ獲物を捕りに歩くだけでありました。

ただ歩くだけです。

ところが言葉にすると、私が歩いていると言います。

私がという主語が入ります。

そしてどこどこへという目的語も生まれます。

言葉がなければ、襲われたら、襲われただけのことですが、言葉があると、あれは敵だと言葉で限定してしまいます。

言葉は便利で、そのおかげで、ホモ・サピエンスという弱い動物が協力しあって、この文明を築き上げてきました。

でも失ったものもあるのです。

言葉にならない世界、言葉ができる以前の世界、それは区別も差別もない、私もあなたもない、ただ一枚に繋がり合った世界です。

禅で「不立文字」というのは、この言葉にならない世界を大切にするのです。

時に沈黙して言葉を使わない世界を味わうのも大切であります。

それが坐禅です。

得るものもあり失うものもあり、そんな長い歴史を思うのであります。

 
横田南嶺

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