白隠禅師と地獄
貞享二年一六八五年に駿河の原宿でお生まれです。
富士山の噴火が、宝永四年一七〇七年で、白隠禅師が数えの二三歳の時でした。
白隠禅師が道を求めて出家するようになったのにも地獄が深く関わります。
白隠禅師十一歳の時であります。
禅文化研究所発行の『白隠禅師年譜』に芳澤勝弘先生が次のように書かれています。
「ある日、母に連れられて昌源寺に行った。そこで伊豆窪金(雲金)の日厳上人が『摩訶止観』を講じられ、その中で地獄の説相を説くのを聴いた。
上人の弁舌は実に巧みで、(熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる)焦熱地獄や(身が裂けて真っ赤になる) 紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話した。岩次郎はこれを聞いて身の毛がよだった。
そして心に思った、「自分は常日頃、好んで(小動物を)殺害するなど、乱暴をほしいままにして来た。だからきっと地獄に堕ちて永遠に苦しみを受けるだろう。
もはや逃れようはない」と。全身が戦栗して、何をしていても心が穏やかではなかった。」
というのであります。
日厳上人というのは、これも芳澤先生の記述には、
「日厳は日蓮宗の傑僧で衆生済度の願をもった人である。
博覧にして弁舌が巧みで世人から帰崇されていた。
古寺を復興する誓願をもっており、身延山貫首の命を受け、各地を歴遊して説法し為人度生をしていた。
窪金は伊豆の田方郡にある。
窪金は伊豆田方郡雲金(現在の天城湯ヶ島町)のこと。久保金などとも書かれた。
原本によれば『摩訶止観』の中に地獄を説く一段があるように解されるが、そうではない。
『壁生草』では「日蓮上人御書」を講じたとある。
講義の合間に地獄の諸相を話したということであろう。」
ということです。
同じ十一歳の時に、
「またある日、母と一緒に風呂に入った。
母は熱い湯が好きだったので、下女に薪を加えて追い焚きをさせた。
風呂釜はしきりに鳴り出し、釜には炎が燃え盛っている。熱気がシュンシュンと肌を衝いて、乱れ矢を受けるようである。
岩次郎はたちまち、あの地獄のことを思い出して、大声で泣き出した。
何事があったのかと皆が集まってきて、あれこれとなだめたけれども泣き止まない。
しばらく泣き続けて、泣きつかれたころを見計らって、母がなでながら言った、「おまえは何を怖がってこんなに泣くのかい。男の子がわけも言わずに、こんなに泣くものではありません」。
岩次郎は涙をおさえて言った、「地獄の苦しみが恐ろしいのです。身の置きようもありません。今、母上と一緒に風呂に入っておってさえ、こんなに恐ろしいのに、たった一人で暗闇にある燃える地獄に堕ちるとは。どうやってそれを免れたらいいのでしょう」。
母が言われた、「おまえが恐怖から逃れることができる、いい方法があります」。「ありますか」。「ありますとも」。
岩次郎は「あれば、それでいいです」と言って、また子供たちと走り回り、叫びまわって遊んだ。」
ということが書かれています。
その後母から天神様を信仰するように勧められて熱心に天神様を拝み、更に観音様を信仰するようになってゆきます。
ついに道を求めて出家して修行に励んだのでした。
ただ一時期巌頭和尚が賊に襲われて殺されたという逸話を聞いて、現在の苦しみすら逃れられないのにどうして地獄の業を免れることができようと大いに失望落胆する時がありました。
その後も、慈明禅師の逸話を知って更に奮起して修行に励んで、ついに悟りを開くに到ります。
賊に襲われて亡くなったと思っていた巌頭和尚は実は豆息災だったと気がついたのでした。
白隠禅師の生きられた時代は、江戸時代の平和な時でありました。
しかし、決して平穏無事な日々というわけではありません。
六三歳の時には、飢饉のために修行僧達がみなそれぞれ分散して帰すことがありました。
そんな苦しい時もあったのです。
また六六歳から六七歳にかけて岡山や兵庫にまで赴いています。
その前年寛延二年一七四九年には姫路で百姓一揆が起きています。
そのことについても白隠禅師は言及されています。
こちらも芳澤先生の訳文を紹介します。
「宝暦九年(一七五九) ころに書かれた『壁訴訟』の中で、この姫路の寛延一揆について言及している。
「三四十年来、播州姫路を初め、所々において百姓ども反逆し、徒党を組み、数百人蜂起し、城を囲み、竹槍撚つて武士にむかふ事、およそ七八ヶ所に及べり。
土民百姓の身として武士に向つて楯づかんとかゝる事、開闢よりこのかた、ついに聞きも及ばざる大珍事なり。
梵漢和の間についにその例なし。
窮鼠かえつて猫を咬むと云はんか。
螳螂臂を張って立車に向ふとせんか。
はたまた数万人の百姓みな尽く顛狂せりと云んか。」
と書かれています。
また宝暦五年一七五五年、白隠禅師七十一歳のとき、小島の龍津寺で維摩経会に招かれています。
龍津寺の大檀越である小島藩主の松平昌信(一七二八~七一)もまたこの時二八歳でありましたが毎日聴聞していました。
若き藩主には、「生民を安撫し、仕役を寛め、賦税を軽くし、仁沢を施すべし」と説かれています。
ところがこの小島藩で、苛烈な年貢の取り立てが行われるようになってしまいました。
そんな惨状も白隠禅師はご覧になって、農民達の力になって巧みな手段をもって訴訟を成功させています。
庶民の苦しい暮らしに晩年の白隠禅師は「地獄」を見たのではないかと思います。
趙州和尚が自ら率先して地獄に行くと言われたように、白隠禅師は地獄で苦しむ人のためにも身を挺して働かれたのでした。
そんな思いが白隠禅師の「南無地獄大菩薩」という書に込められているように感じます。
横田南嶺