敬うものを大切に
私などは卒業式というと、この歌が思い浮かぶのであります。
仰げば 尊し 我が師の恩
教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば
から始まる歌であります。
二番は、
互いに睦みし 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば
三番は
朝夕 馴れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば
この歌が歌われなくなっているという話を聞きました。
明治十七年に発表された唱歌で、昭和から平成のはじめ頃までは歌われていたそうなのですが、最近はもう歌われていないそうなのです。
昭和世代の方には、懐かしい歌なのですが、私のまわりにいるお若い方は、もう全く知らないと言います。
歌われなくなった唱歌というのは、あるものです
私がよく法話で紹介するのが、「村の鍛冶屋」であります。
あの歌も村で鍛冶屋さんを見かける風景がなくなってしまったので、歌われなくなったのでした。
歌われなくなることはあるものです。
仰げば尊しは、古語を含んでいて文語調なために、わかりにくいという点もあります。
たとえば「いと疾し」というのは、「いと」は「とても」という意味で、「疾し」は「すばやい」という意味です。
それから、「今こそ分かれめ」、今が分かれ目だという意味ではありません。
係助詞の「ぞ、なむ、や、か、こそ」が前にあると語尾が変化します。
「ぞ、なむ、や、か」は連体形ですし、「こそ」は已然形となります。
「別れむ」なのですが、その「む」が已然形の「め」になるのです。
さあ、今別れようという意味なのです。
「やよ 忘るな」の「やよ」は呼びかけの言葉です。
それから二番の歌詞にある、「身を立て 名をあげ」というのは『孝経』の言葉から来ています。
『孝経』に「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終なり」という言葉があります。
一人前になって正しい道を実践して、その名前が後世にまで知られるようになって、どこの子だと言われるようになって父母のことまで世に知られてこそ、孝行の終わりだというのであります。
いろんな理由もあって歌われなくなったのでしょう。
それと同時に、こんな話も聞きました。
この頃はクラス会や同窓会を行っても先生を呼ばないことも多いようだというのであります。
そういうものかなと思って聞いていました。
先生も仰げば尊くなくなってきたのか、敬して遠ざけられるようになったのかなと思ったりしていました。
世の流れというのはあるものだと、そんなことを思っていました。
先生にしてみれば、教え子たちが元気に頑張っている姿を見るのがなによりの楽しみかと察します。
かつてとある管長さまが、自分のところで修行した者が、住職して晋山式を行うときには、すべて出てあげたいとおっしゃっていたのを聞いたことがあります。
晋山式というのは新しくお寺の住職になることを披露する儀式であります。
お寺にご縁のある和尚様方などが大勢集まります。
そしてその新しい住職が修行した修行道場の老師も招かれて、新しい住職に垂訓といって心構えを示すのが慣例であります。
修行道場の老師にしてみれば、自分の道場で修行した者の晴れ姿を見るのでありますから、楽しみなのであります。
自分の道場で修行した者のすべての晋山式に出てあげたいとおっしゃっていた老師のお気持ちもよく分かるものであります。
『論語』には「敬して遠ざく」という言葉があります。
「樊遅、知を問う。
子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。
仁を問う。曰わく、仁者は難きを先きにして獲るを後にす、仁と謂うべし。」
という文章です。
岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の現代語訳を引用します。
樊遅が智のことをおたずねすると、先生はいわれた、
「人としての正しい道をはげみ、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」
仁のことをおたずねすると、いわれた、
「仁の人は難い事を先きにして利益は後のことにする、それが仁といえることだ。」
というのであります。
ここから「敬遠」という言葉が使われるようになったのです。
『広辞苑』に「敬遠」とは
「①うやまって近づかないこと。」
という意味があり、そして更に
「②表面はうやまうような態度をして、実際は疎んじて親しくしないこと。また、意識して人や物事を避けること。」
という意味も書かれています。
「敬して遠ざける」という言葉も『広辞苑』に出ています。
[論語(雍也)
「鬼神を敬して之を遠ざく」
敬ってなれ近づかない。
転じて、うわべは敬っているような態度をとりながら、内実はうとんじて親しくしない。」
という意味が書かれています。
仰げば尊しが歌われなくなったというのは、世の流れかとは思いますが、いつの時代にあっても敬うものがあるというのは貴重なことだと思います。
敬って慣れ近づかないというのは、まだしも、うわべだけ敬うというのは考えものです。
森信三先生は、
「尊敬する人が無くなった時、その人の進歩は止まる。
尊敬する対象が、年と共にはっきりして来るようでなければ、真の大成は期し難い。」
と仰せになっています。
敬うものを大事にしたいものであります。
横田南嶺