知らせよう 不思議の世界を
坂村真民記念館開館十三周年記念講演です。
「慈悲の心と生きる喜びを
~横田南嶺老師が選ぶ真民詩の世界~」
という特別展があって、その講演でありました。
私は「今、真民詩に学ぶ」と題して話をしました。
その日がちょうど三月八日だったので、
「三月八日」という詩をはじめに読みました。
記念館での講演は何回か行っていますが、なるだけ多くの真民詩を紹介するようにしています。
真民先生にとっては誕生日が一月六日で、お亡くなりになったのが十二月十一日、そして大事なお母様のご命日が五月十六日です。
それらは大事な日でありますが、それと同じく大事な日が「三月八日」です。
それは真民先生にとっての最初のお子さんのお誕生日であり、ご命日でもあります。
昭和十年清州高等女学校の教師として朝鮮で働いていた真民先生は、二六歳でご結婚なされます。
昭和一六年三月、夫婦に待望の女の子か生まれますが、死産だったのでした。
真民先生夫婦は、その子に「茜」という名前を付け、それ以来毎年この「茜ちゃん」の誕生日であり命日である三月八日を大切な日として、過ごしてきたのでした。
三月八日の詩を紹介します。
三月八日
三人の娘を嫁がせ終わって
わたしたち二人の思い出は
今も賽の川原で
ひとり遊んでいる
茜のことにおよぶ
きょうは天気がいいので
歩いて四十八番札所の
西林寺にお参りする
茜よお前の命日の三月八日は
観音日であるし
十一面観世音菩薩と刻んである
梵鐘を撞いて
お前の冥福を祈る
乳も飲まずに
あの世へ行ってしまった茜よ
お母さんの撞くこの鐘の音を
じっときいてくれ
そしてわたしたちがくるまで
お地蔵さんと一緒に遊んでいてくれ
という詩です。
真民先生六十六歳の時の詩で、全詩集巻三にあります。
真民先生夫婦にとって、この茜ちゃんは家族の「守り神」としても大切な存在でありました。
そして色んな場面で真民先生一家を守り救ってくれたのでした。
七十六歳のときに詩に、
茜
目覚めるとかすかな香りが残っていた
茜が来ていたのだ
というのがあります。
亡くなった茜ちゃんのことをずっと大事に思い続けているのです。
真民先生の深い愛情を思います。
今回は掲示板の詩の特別展なので、掲示板に書いた思いが現れていると思って、「知らせよう」の詩を紹介しました。
知らせよう
せかせか通り過ぎてゆく人に
知らせよう
一輪の花があなたを呼んでいることを
ただ体のためだけにジョギングしている人に
知らせよう
念仏となえて走ったら
心のためにもいいことを
魚を釣っている人に
知らせよう
時には餌をつけずに糸を垂れて
風の音や波の音を
ほれぼれと聞くことを
働き疲れてぐっすり眠っている人に
知らせよう
月が光り星が輝き
あなたとあなたの家族とを
温かく守っていることを
病に苦しみ眠られずにいる人に
知らせよう
すべてを任せきることによって
不思議な力が生まれ
闇が光となることを
迫りくる恐怖におびえている人に
知らせよう
仏の説かれた輪廻の教えを
死は新しい生に
つながっていることを
今は円覚寺の総門の下にも掲示板を作って詩を貼っています。
北鎌倉駅から降りて、この詩の通り「せかせか」と通り過ぎてゆく人にも、真民詩に足をとどめて読んで欲しいという思いからであります。
この詩の中に、
「魚を釣っている人に
知らせよう
時には餌をつけずに糸を垂れて
風の音や波の音を
ほれぼれと聞くことを」
とありますが、この「ほれぼれと」という表現がよいのです。
真民先生には、こんな詩もあります。
「ほれぼれと」という題の詩で、こちらも紹介しました。
ほれぼれと
一羽の鳥の声をほれぼれと聞く
われであれ
一輪の花をほれぼれと見る
わがあけくれであれ
それから不思議の世界について話をしました。
茜ちゃんが守ってくれるなどというと、信じがたいという人もいるかもしれません。
しかし、世の中には不思議なことがあるものです。
不思議なる世界があるものです。
この不思議の世界があることを知らせたいという思いも掲示板の詩を書くのにあるものです。
長いのですが、全詩集七巻にある「不思議抄」の詩を紹介しました。
不思議抄
1
天国も
地獄も
不思議抄
在ると信じて
この世にいる時
善を為すことだ
2
目に見えない
神仏の実在を
知ること
これが信仰である
3
広大無辺の大宇宙は
不思議で
いっぱいである
だから頭をさげて
心服し
決して背いてはならぬ
4
不思議を
不思議と思わぬ人を
愚と言う
5
生まれたことの
不思議
生きていることの
不思議
両手を合わせる
6
別れを惜しむのは
人にではなく
また会うこともない
山中の村の大木
7
老いゆけば
すべてが別れとなる如し
咲いて散りゆく
春の花花
8
神さま仏さまを祭るのが信仰ではない
本当の信仰とは
目に見えないものの不思議を知り
素直な心になり
すべてに愛を持つことだ
9
信仰とは
信じ仰ぐことです
疑わないことです
目に見えない
不思議なお力を
身につけることです
10
ある旅館に泊ったら
床に
「無」の一字が
かかっていた
わたしは早起きだから
その前に坐り
夜の明けるのを待った
仏と対坐している喜びが
旅の疲れを癒やしてくれた
いつも日曜説教の始まりに、お互いが生まれことの不思議、今日まで生きてこられたことの不思議、こうしてお互いにめぐりあえた不思議に手を合わせましょうと申し上げていますが、これはこの詩の5番にある、
生まれたことの
不思議
生きていることの
不思議
両手を合わせる
という一節からきています。
8番の
神さま仏さまを祭るのが信仰ではない
本当の信仰とは
目に見えないものの不思議を知り
素直な心になり
すべてに愛を持つことだ
という一節から、更に
「本当の信仰とは
目に見えないものの不思議を知り
素直な心になり
すべてに愛を持つことだ」
という一節だけをとりあげて掲示板に書いたこともありました。
見えないものの不思議を知るというのが本当の信仰です。
見えないからと言って
見えないからと言って
日の昇らない時が
あっただろうか
月の出ない時が
あっただろうか
見えないからと言って
なかったとは言えない
それと同じく
見えないからと言って
神さまや
仏さまが
いないと誰が言えよう
それは見る目を
持たないからだ
大宇宙には
たくさんの神や仏さまが居て
この世を幸せにしようと
日夜努力していられるのだ
一輪の花の美しさを見たら
一羽の鳥の美しさを見たら
それがわかるだろう
見えない世界の神秘を知ろう
という詩を紹介しました。
そうして
あの人へ
共に苦しみ
共に生きる
これがわたしの
詩を作り
詩を配る
願いであり
行である
未明混沌の空を
吹いてゆく風よ
伝えてくれ
生きる力を
無くしようとしている
あの人へ
わたしの思いを
という詩を読みました。
生きる力をなくしている人に届けたいという思いで真民先生は詩を書かれ、私はその真民先生の詩を掲示板に書き続けてきたのでした。
そんな思いを語ってきました。
横田南嶺