禅僧と地獄
岩波書店の『仏教辞典』には、
「悪業を積んだ者が堕ち、種々の責苦を受けるとされる地下世界の総称。」
と解説されています。
そして「古代インド社会における業報輪廻の世界観の定着とともに、仏教でも早くからこの地獄思想を取り入れ、悪業の報いとしての堕地獄の恐怖が盛んに説かれた。
そして、在家として戒律を守り善業を積めば、死後には生天の果報を得、また出家として清らかな身を保つ者は、輪廻の苦界そのものから逃れて究極の解脱を得ることができるものとされた。」
と説かれています。
もともと古代インドにあった地獄思想を仏教が取り入れたと書かれています。
そこから在家の者は五戒を守り、施しをして天界に生まれることを説いたのでした。
禅の語録にも地獄が説かれることがあります。
たとえば馬祖禅師の語録には、こんな話があります。
禅文化研究所の『馬祖の語録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「洪州城下の大安寺の寺主で、経論を講義する座主がいて、もっぱら馬祖を誹謗していた。
ある日、真夜中に、地獄の使いがやって来て門をたたいた。
寺主、「どなたかな」。
答え、「地獄の使いだ。寺主をつかまえに来た」。
寺主、「地獄の使者に申す。わしは今年六十七歳になった。
四十年も経論を講義し、大衆のために計らってやって、もっばら議論ばかりで、まだ修行ができていない。
しばらく一日一夜だけ待ってほしいが、よろしいか」。
使い、「四十年このかた経論の講義に打ち込んで修行ができておらんというのに、今さら修行して何になろう。
のどが渇いてから井戸を掘るようなもの、何の足しにもならぬ。
寺主はさきほど、『経論を講義することに打ち込んで、大衆のために計らった』と言ったが、道理にあわぬことだ。
なぜなら、経文にはっきりと記されている、
『自ら彼岸に渡って人にも渡らせ、自ら解脱して人にも解脱させ、自ら修養して人にも修養させ、自ら心を静めて人にも静まらせ、自ら心身を穏やかにして人も穏やかにし、自ら垢れを離れて人にも離れさせ、自ら清めて人にも清めさせ、自ら涅槃(さと)って人にも涅槃(さと)らせ、自ら楽しみ人にも楽しませる』とある。
寺主自身さえも心の安らぎを得ておらぬのに、どうして他人の修行を計らってやれよう。」
と書かれています。
そこでこのお坊さんを刀樹林地獄に入れて、その舌を断ち切ろうというのであります。
とにかく一日だけでも修行させて欲しいと願うので、地獄の使者も
「そういうことなら、一日だけ修行させてやろう。
われらはむこうに帰って彼の王に申し上げ、もしお許しが出れば、明日来よう。もしお許しが出なかったら、ちょっとの間に来るぞ」と言いました。
それから
「地獄の使いが帰ったあと、寺主は思案した、
「あの使者はこの一件は認めてくれたが、いったい一日でどう修行したものか。
手だてもない」。
夜が明けるのも待たず、すぐさま開元寺に行き、門をたたいた。」
と書かれています。
当時この開元寺には馬祖禅師がいらっしゃいました。
「門番、「どなたじゃな」
「大安寺の寺主が大師にごきげんうかがいに来ました」。
門番が門をあけると、寺主はすぐ和尚の所に行き、さきほどの一部始終を語り、地にひれ伏して礼拝し、立ちあがって言った、
「生死がやって来ました。 どうしたらよろしいでしょうか。どうか和尚のお慈悲で、余命をお救い下さい」。
馬祖は寺主を身辺に立たせた。
夜がすっかり明けると、地獄の使いが大安寺の中にやって来て寺主を探したが見つからない。
また開元寺に来ても探し出せずに帰って行った。
馬祖と寺主にはその使いが見えたが、その使いの方は馬祖と寺主が見えなかったのである。」
という話なのであります。
修行をした禅僧の姿は、鬼神も見ることができないのです。
一念も起こさないので土地神もその姿をみることができないという話があります。
また牛頭和尚が、修行していた頃には鳥たちが花を供養してくれていましたが、四祖禅師にお目にかかってからは、鳥たちにもその姿を見ることができず、花を供養することもなくなったという話もあります。
地獄の使者といえども禅僧の姿すらうかがい知ることはできないという話です。
『臨済録』には、地獄についての記述が7カ所ほど出てきます。
「諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ。 その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作りだ。」
「また君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うが、わしから見れば、みんな業作りだ。仏を求め法を求めるのも、地獄へ落ちる業作り。」
「そもそも真正の修行者は、決して仏を認めず、菩薩をも阿羅漢をも認めず、この世の有り難そうなものなど一切問題としない。
そんなものからはるかに超越して、外の物にかかずらわない。
たとい天地がひっくり返ってもうろたえず、十方世界の仏がそろって出て来てもいささかも喜ばず、三途地獄がぱっと現れても微塵も怖れない。」
「ただ、今わしの面前で説法を聴いている君たちその人が、火に入っても焼けず、水に入っても溺れず、三途地獄に入っても花園に遊ぶよう、餓鬼道や畜生道に入っても苦しみを受けない。」
「おれは出家者だと広言はしても、人に仏法を問われると、口を閉ざして答えがなく、眼玉はヤニの付いた煙突みたい、口は「へ」の字に結んだまま。
こんなやからは弥勒の出現に逢っても、かなたの悪地に島流しになり、ついには地獄に寄留して苦しみをなめることになろう。」
「諸君、たとい百部の経論を説き明かすことができる者でも、一人の平常無事な坊さんには及ばない。
学があると他人を軽蔑し、優劣を争い、自己中心の迷妄に陥り、地獄ゆきの業を増長する。
善星比丘などは、あらゆる教理を理解していたが、生きながらにして地獄に落ち、この広い大地に身の置きどころさえなかった。」
というように、『臨済録』には地獄などものともしないと説かれています。
更に『趙州録』には、
「郎中の崔氏がたずねた、
「立派なお師家さまでも、やはり地獄に入りますか。」
師、「わしはまっさきに入る。」
崔、「立派なお師家さまともあろう人が、どうして地獄に入るのです。」
師、「わしがもし入らなかったら、どうして郎中(あなた)と会うことができよう。」」
という問答があります。
こうなると、地獄に落ちる人を救うために地獄にも入ってゆこうというのであります。
臨済禅師は、地獄に入るのも花園に行くようなものだとおっしゃっていますので、禅僧にとって地獄は怖れるものではなかったのでした。
横田南嶺