鍵山先生の教え
その笑顔に触れるだけで心が癒やされるものでした。
しかしこの笑顔についてこのようなことも仰せになっています。
鍵山先生との対談本『二度とない人生を生きるために』から引用します。
「もともと私は陰性の性格です。放っておいたら不機嫌な顔になります。ただでさえ世の中を呪うような顔つきをしているうえに、本当に人を怨んだら、極めて不愉快な印象を与えてしまうでしょう。
それは怠惰だと、佐光義民先生から言われました。
「不機嫌な顔は怠惰だ」と。
その言葉を心に刻んで、何があっても、人を怨まず、努めて明るく丁寧にふるまうようにしてきました。」
というのです。
あの穏やかな笑顔は、長年の努力によってなされたものなのです。
もっとも御一代であの大きな企業を作り上げたのですから、いろんなご苦労があったことだと察します。
鍵山先生から「唾面自乾」という言葉を教わったのも忘れがたいものです。
取引先のトラブルにまきこまれて、監禁されてしまい、たった一人で二十五時間も耐えたというのです。
その間、罵声を浴びせられ、カミソリで服を切られ、顔に唾をはきかけられたそうですが、滴り落ちる唾をぬぐうこともせずに不動の心で坐っていたのでした。
それでさすがに相手も音をあげて帰りには鍵山先生を駅まで送る手配をしてくれたそうなのです。
鍵山先生は坂村真民先生のことをとても尊敬なさっていました。
真民先生の最晩年にもお見舞いをなされています。
対談した折にも真民先生の詩の中でも「二度とない人生だから」と「なやめるS子に」の詩が好きだと仰せになっていました。
昨年の暮れに山口にある鍵山記念感を訪ねた折にも、イエローハットの物流センターにある「二度とない人生だから」の全文を書いた大きな石碑を見て感動したのでした。
鍵山先生は、真民先生が詩で詠われた世界を、ご自身の生き方で体現されようとしたのだと思います。
「なやめるS子に」を紹介しましょう。
なやめるS子に
だまされてよくなり
悪くなってしまっては駄目
いじめられてよくなり
いじけてしまっては駄目
ふまれておきあがり
倒れてしまっては駄目
いつも心は燃えていよう
消えてしまっては駄目
いつも瞳は澄んでいよう
濁ってしまっては駄目
おそらくや鍵山先生もお若い頃からいろんな体験をなされてきたのだと察します。
だまされることもあったのかもしれません。
つらい思いをされたことも多かったと察します。
しかし、それで悪くなってはダメであり、いじけてしまってはダメなのです。
ご自身でそう言い聞かせて、最後まで心を燃やし、澄んだ瞳をなさっていたのでありました。
中根東里のことを教わったのも鍵山先生との対談からでありました。
尊敬する人物について、鍵山先生はまず西郷隆盛をあげられていました。
『二度とない人生を生きるために』には、
「私が心の中で一番敬愛しているのは、西郷隆盛です。
江戸城無血開城というあれだけの大偉業をなし遂げながら、西郷さんは傲慢になることもなく、恬淡としています。
まことに潔いというか、あの姿が私には理想です。
西郷さんが素晴らしいのは、善人のまま最高指導者になった点です。人々から「西郷さん」「西郷どん」と呼ばれていますが、「さん」付けで呼ばれる英雄はこれまで日本にいたでしょうか。
織田信長を「織田さん」、豊臣秀吉を「豊臣さん」と呼ぶ人はいないわけです。
西郷さんは貧しい下級武士の家に生まれて、高等教育も受けていないのに、人々に影響を与える立派な教育者にもなりました。それでいて、「西郷さん」と慕われているのですから、これ以上すごい人はいないと思います。」
たしかに西郷さんは、西郷さんと呼ばれて親しまれています。
これは偉大だと思います。
それから山田方谷、そして中根東里の名を挙げられていました。
中根東里は、江戸時代中期の儒学者であります。
儒学者といっても中江藤樹や伊藤仁斎、荻生徂徠のように教科書に載っているというわけではありません。
中根東里は、一六九四年に伊豆の下田で生まれて、一七六五年に浦賀で亡くなっています。
七十一歳ですから、当時としては長命でした。
特別歴史に残るようなことをしたというわけではありません。
幼少より学問好きで、十三歳の時に父が亡くなり、禅宗の寺に入って僧になりました。
漢籍を読むことに長けていて、宇治の万福寺では、中国語で漢文を習っていました。
それだけに本格的に漢籍を読むことができたのだと察します。
ただ、当時の禅寺にはなじむことができずに、荻生徂徠の門に入って更に学を深められました。
そして還俗されてしまいます。
徂徠の学問に疑問を抱いて、室鳩巣に師事されました。
更にそれでも満足できずに、陽明学を学ぶようになりました。
中根東里は、単なる学問だけではなく、貧しい人がいると自分の書物を売ってでも助けてあげるような、儒教で説く「仁」(おもいやり)を実践なされたのでした。
四十一歳で、弟子である医師金束信甫(こづかしんぽ)に招かれ、下野国佐野に住むようになりました。
そこで信甫の家の泥月庵(のち知松庵)で塾を開き、二十数年にわたり陽明学や『伝習録』をわかりやすく講義したのでした。
更に、中根東里は弟の娘芳子を引き取って養育することになりました。
弟は、結婚して子をもうけたものの、妻が病で亡くなり、それでも何とか芳子を育てていたのですが、十分育てることができずに、三歳の芳子は死に瀕していました。
その芳子を東里は、懸命に世話をして育てたのでした。
東里は、ほとんど書物を残さなかったのですが、この芳子のことを書き綴った漢文の書物『新瓦』のみが残されたというのです。
そんなご生涯なのですが、鍵山先生は、
「西郷隆盛、山田方谷、中根東里の三人とも、学問と生活が直結し、実践された点が素晴らしい先人です。
私はこの方たちから人間力というものを学ばせていただきました。
少しでもこの方たちに近づきたいと頑張り続けているところです。」とおっしゃっていました。
若い日の鍵山先生は疎開先で佐光義民先生に『禅海一瀾』を教わっています。
今北洪川老師の著書です。
その中に洪川老師が悟りを開いた時の言葉に、「百万の典経、日下の灯」というのがあります。
この言葉を鍵山先生は「百万の経典を読んでも実行しなければ、お日さまの下でローソクを灯すようなもの、何の価値も無い」と受けとめられたのでした。
実践を大事にされた鍵山先生でありました。
横田南嶺