ますます深まる般若心経
ただいまは第三回まで公開されています。
山田無文老師が般若心経を講義なされたのが、禅文化研究所発行の『般若心経』であります。
とてもわかりやすく、そしてよくまとめられているので、これをテキストにして般若心経を解説してゆこうという主旨で始めました。
第一回が、経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」について講義しました。
第二回が、「観自在菩薩」について学びました。
そして第三回が、「行深般若波羅蜜多時」というところを講義したのでした。
第一回で、経題の摩訶般若波羅蜜多心経というのを、無文老師は「大きな智慧の彼岸に到達する肝心な経典」と解説されています。
第二回では観自在菩薩について
「観音さま、原語ではアバロキテーシュバラと申しますが、鳩摩羅什の訳では観世音、この玄奘三蔵の訳では観自在と訳されておりますが、同じことであります。
他にも光世音という訳もあります。
仏とは智慧と慈悲だといわれますが、智慧を主体とする時には観自在であり、慈悲という面から見たならば観世音、と理解したらわかりよいかと思います。」
という無文老師の解説を紹介しました。
それから第三回が、「行深般若波羅蜜多時」でまずは「行」について、
「すでに菩提心を発したからには、それにふさわしい行、菩薩の願行がなくてはなりません。
禅は行の宗教といわれますが、ただ能弁に語るよりは、黙々として行ずるところに、禅の風格があります。」
と説かれています。
それから白隠禅師の註釈から、
「空を求めて色を破る、之れを浅と言い、色を全うして空を見る、此れを深と曰う」という言葉を引いて
「色、つまり物質を分析して空の理を追求していくのは浅般若である。
たとえば自我というものは実はないのであるが、自我を構成している物質はあると見ること、つまり、自我という主観は空であるが、客観の世界は実在するのだ、と見ていくのが浅般若であります。
しかし、そのように頭で分析せずに、物があるがままに、そのままいっさいが空だと直感できるならば、それを深般若というのであると。」
と説かれています。
このあたりから難しくなってきます。
高神覚昇先生の『般若心経講義』の中に、分かりやすい譬えがあります。
「いま私のいる部屋には、一箇の円い時計がかかっています。
この時計の表面は、ただ長い針と短い針とが、動いているだけです。
しかし、いま、かりに、この時計の裏面を解剖してみるとしたらどうでしょうか。
そこには、きわめて精巧、複雑な機械があって、これが互いに結合し、和合して、その表面の針を動かしているのではありませんか。
私は現にただ今この東京鷺宮の無窓塾の書斎でペンを動かしています。
これはもちろん、簡単な事実です。
しかしこの無窓塾がどこにあるかを考え、私、および私の故郷伊勢の国のことなどを考えて、だんだん深く、そして広く考えてゆきますと、終にはこの一箇の私という存在は、全日本はおろか、全世界のすべてに関係し関聯していることになるのです。
かように、一事一物、皆ことごとく関聯していないものはないのです。
ただ、私どもがそれを知らないだけのことなのです。
しかし知ると知らざるとにかかわらず、一切のものは互いに無限の関係において存在しているのです。」
というのであります。
まだ中学生の頃にこの解説を読んで感動したことを覚えています。
これは、まだ頭で分析して理解しているのです。
これが「頭で分析せずに、物があるがままに、そのままいっさいが空だと直感できる」ことが大事なのです。
あるがままに、すべてがつながりあっている、独立しているものはないと深い感動を持って体感することであります。
「行」についても高神覚昇先生は
「それから、ここでお互いがよく注意しておかねばならぬ文字は、「般若波羅蜜多を行ずる」という、この「行」ということばです。これがたいへん重要なる意味をもっているのです。
あえてゲーテを待つまでもなく、いったい宗教の生命は「語るよりもむしろ歩むところにある」のです。
いや宗教は、語るべきものではなくて、歩むべきものです。
しかも、その歩むというのは、この「行」です。
行ずるということが、歩むことであり、実践することなのです。
いったい西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。
すなわち知るは行なうのはじめで、知ることは行なわんがためです。しかも行なってみてはじめて、ほんとうの智慧ともなるのです。」
と説かれています。
素晴らしい講義であります。
先日は禅文化研究所で、第四回「照見五蘊皆空」について収録してきました。
「五蘊皆空」というところは、とても大事なところです。
五蘊についても無文老師はやさしく解説してくださっています。
「五蘊。というのは、「集まり」という意味で、お互いの肉体と精神は、後のところにも出て来るように、色、受想行識の五つが集まってできておるのであります。」
と説かれています。
そこから五蘊のひとつひとつについて解説してくださいます。
そしてその五蘊が空であるとはどういうことか、学びを深めてまいります。
ますます般若心経の世界が深まって参ります。
そのように無文老師の本をもとに解説していると、自分自身が無文老師から講義をいただいて学んでいる気になるのです。
有り難いことであります。
横田南嶺