相手の身になる – 無事講了 –
雪安居は十月二十日に入制で、一月の末までであります。
その間、修行僧は原則修行道場にとどまって修行に専念します。
もともとはインドで、雨期の頃に外出せずに修行したことから来ています。
いつの頃からか、冬の安居も行われるようになっています。
それぞれ毎月に大摂心がございます。
その間、師家は毎日禅の語録を講義します。
一月の摂心が二十六日までで、その最終日が講了となります。
全員無事に講了を迎えることができるとホッとするものです。
思えば、十月の入制の頃には、体調を崩す者が多くて、これからの安居がどうなるか、とても心配でしたが、皆元気になっていって、臘八も無事終えて、そして一月の摂心も無事に終えるのであります。
講了では、『臨済録』の上堂を読んで終えました。
臨済禅師が上堂して麻谷禅師が進みでて来るという一節です。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「ある日、師は河北府へ行った。そこで知事の王常侍が説法を請うた。師が演壇に登ると、麻谷が進み出て問うた、「千手千眼の観音菩薩の眼は、一体どれが正面の眼ですか。」
師「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが正面の眼か、さあ、すぐ言ってみよ。」
すると麻谷は師を演壇から引きずり下ろし、麻谷が代わって坐った。
師はその前に進み出て、「ご機嫌よろしゅう」と挨拶した。
麻谷はもたついた。
師は麻谷を演壇から引きずり下ろし、自分が代わって坐った。
すると麻谷はさっと出て行った。そこで師はさっと座を下りた。」
というところです。
これも『臨済録』を初めて読んだ頃にはなんのことやらさっぱり分からない話でした。
その後、修行してくるとこういうことかなと思ったりしますが、それにしてもよく分からない話であります。
原文には、はじめに「河府に到って上堂」とあり、河府というのは、河北府の首府であった成徳の町を言います。
そこの知事であった王紹懿が臨済禅師にお説法をお願いしたのです。
そこで臨済禅師が上堂といって、壇上に上ると、麻谷禅師が進みでて、「千手千眼の観音菩薩の眼は、一体どれが正面の眼ですか。」と質問しました。
臨済禅師は麻谷禅師に同じく「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが正面の眼か、さあ、すぐ言ってみよ。」と迫ります。
すると麻谷禅師は、臨済禅師を壇上から引きずり降ろしたのでした。
麻谷禅師が壇上に坐ります。
臨済禅師は下座から「不審」と挨拶します。
「ごきげんよろしゅう」ということです。
入矢先生の訳では、「麻谷はもたついた」となっていますが、原文は「擬議」で麻谷禅師が、何か言おうとしたところを、臨済禅師が麻谷禅師を壇上から引きずり降ろしたのです。
そしてまた元の通りに臨済禅師が壇上に坐りました。
麻谷禅師がさっと出て行き、臨済禅師もまたこれで説法が終わったとばかりに座を下りたのでした。
千手千眼の観音菩薩とは千手観音のことであります。
「千本の腕の各掌に眼を持った観世音菩薩」であります。
中国の唐代に千手観音の信仰が盛んであったようです。
日本でも千手観音様は、よくお祀りされています。
奈良の唐招提寺や大阪の葛井寺(ふじいでら)には実際に千本の手がある観音様がお祀りされています。
さてこの上堂、いったい何を言わんとしているのでしょうか。
老師方の提唱を参照してみましょう。
まずは山田無文老師です。
禅文化研究所発行の『臨済録』から引用します。
「こういう上堂である。
実に見上げた達人と達人との、名優と名優との踊りを見ているようなもんだ。
実に立派な上堂である。古人は、この上堂が臨済録の眼目だ、この上堂が分からんと臨済録は分からん、と言うておる。
臨済といい麻谷といい、実に優れた力量を持って遊戯三昧だ。
自由自在の働きをしておる。
賓主互換、ある時は主となり、ある時は賓となり、お互いに相手の境地にいつでもなり得る。
こういう境地が分からんというと、臨済録は分からん。
悟りを開いた者は、みんな同じ境地に入るのだ。普遍的世界に入るのじゃ。
「千江水有り千江の月、万里雲無し万里の天」。
月は池にも映るし、沼にも映る。海にも映るし、川にも映る。草葉の露にも映るし、茶碗の中の水にも、タライの中の水にも、小便タゴの中の水にもお月さんは映るのじゃ。
千江水有り千江の月だ。
仏性の世界は、平等普遍な世界に入ることじゃ。
万里雲無し万里の天だ。
その境地は、大海の月も、小便タゴの月も同じことじゃ。
俺がおまえで、おまえが俺だ。
そういう境地が分からんというと、臨済禅は分からん。」
というのであります。
更に
「社会も世界もそうだ。
いつでも相手の立場になってやれる境界がないというと、円滑にはいかん。
自分の立場ばかり固執しておるようでは、世の中、円満にはいかん。
いつでも相手の立場に代わってやれる。
社長はいつでも社員の立場になれる。
社員はいつでも社長の立場になれる。
主人はいつでも奥さんの立場になれる。
奥さんはいつでも主人の立場がよう分かる。
そうお互いが理解できれば、社会生活は円満に行くのである。」
とお説きくださっています。
大森曹玄老師は春秋社の『臨済録講話』で
「なんと、これが大悲千手眼の活作用というものであろうか。麻谷が直きに臨済となり、臨済はそのまま麻谷であるところのこの自他一如の普遍的人格が、すなわち千手観音の当体でもあろうか。
大燈国師は、この一場の活劇を評して ”雨過ぎて竹風清し”といったというが、まことに雨あがりのような清々しい風趣がある。」
と説いてくださっています。
相手に立場になってみるというと、松平不昧公の言葉を思います。
「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」という言葉です。
相手の身になってみるということです。
修行道場であれば、食事を作る典座になれば、食べる修行僧の身になって作るし、いただく身であれば、作ってくれた人の身になっていただくということでしょう。
大森老師のお言葉によれば、そのように自分と相手が一体となった自他一如の境地が、千手観音様だというのであります。
はたして自分は修行僧の身になっていたであろうかと反省する講了でもありました。
横田南嶺