栗山さんの禅修行 其の三
薪を割ること、竈でご飯を炊くこと、持鉢を使って食事をすること、禅の語録の講義を聴くこと、イス坐禅で坐ることなど、あらかじめ予定していた修行を終えて、これから修行僧達との懇談に移ろうとしたところ、栗山さんから禅問答について聞かれました。
禅問答がどのようなものなのかご関心がおありなのでした。
禅問答は、今の臨済宗の修行では最も中心となるものです。
日常は、朝晩二回、老師の部屋に入って一対一で禅問答をします。
大摂心という一週間の坐禅修行の期間になると、一日に三回から五回も問答をします。
もともと、密室で行うのではなく、大勢の人の前で、質問のある者が老師に問いかけるというものでありました。
それが時代の変遷を経て、修行僧が疑問を投げかけるというよりも、老師が修行僧に問題を出して答えるというものに変わってきています。
とくに看話禅という独自の修行方法が編み出されています。
これは、趙州和尚の答えた「無」の一字などを修行僧に問題として与えておいて、修行僧はその「無」とは何かを工夫してゆくのです。
はじめはいろいろ「無」について思いついたことを答えてゆきます。
しかし、毎日毎日答えていると、そのうちに答えることがなくなります。
なくなってしまうと、もう「無」についてあれこれ考えても仕方がないことがわかり、ただ「無」になりきってゆくようになるのです。
老師の方はというと、ただ何を答えてきてもそれを否定して追い返します。
淡々とその否定を繰り返してゆくと、修行僧はだんだんと窮してしまい、とうとうあれこれ考えることを放棄してしまい、「無」になってゆくのです。
この禅問答の様子は一対一の世界で、他人に見せるものではありませんので、こればかりは実際に体験してもらうというわけには参りません。
ただどの場所で、老師がどこに坐って、修行僧がどのようにして問答に臨んでいるのかを見てもらいました。
これにも栗山さんは感激されていました。
そしておっしゃったのは、修行僧も毎日の禅問答をするのはたいへんだと思っていたけれども、これを毎日受ける老師もたいへんだと思いますと言われました。
そう言われてもふだん当たり前にやっていますので、たいへんだと思うことはないのです。
ただ壁になって修行僧が答えてくるものを跳ね返してゆくだけなのです。
問答の答えが合うというのは、その修行僧の雰囲気やたたずまいで感じるのか、どうかと聞かれました。
これが不思議なことで、一所懸命に坐って、坐禅が深まってゆくと、おのずと問題の答えが昔の禅僧が残された答えと一致するのですと申し上げました。
これが実に禅問答に醍醐味なのです。
頭であれこれ思考して答えを探してもダメなのです。
ただしっかりと坐って無になる工夫をするのです。
そうしてしっかり坐ってゆくと、必ず問答の答えがはっきりとしてくるのです。
そうして昔の禅僧の残された言葉とピタリと合致します。
老師の役目は、修行僧がそのようになってくるまでただじっと待ち続けるのですと栗山さんに申し上げたのでした。
こちらはもうそんなことを二十五年以上もやっていますので、当たり前になってしまっています。
でもそのようにたいへんだと言われてみると、おかげで善い修行をさせてもらっているのだと改めて思いました。
そのあと場を移して、栗山さんと修行僧との懇談となりました。
あらかじめ修行僧たちから栗山さんへの質問を書いてもらって、栗山さんにも見てもらっていました。
そのなかから会場では私がいくつかの質問を選んで、それこそ公開の場での問答となりました。
また栗山さんから修行僧たちにも質問があると言われました。
どうぞと申し上げると、二つあるというのです。
ひとつはいまたいへんな修行をしながら、ふだんどんなことを考えているのかということ、もうひとつは二十年後の自分をどのようにイメージしているかということでした。
二番目の問いは難しいものです。
しかし、これは控え室で栗山さんが私に言われたのですが、二十年後にどんな自分になっているか明確にイメージできて、それに向けていま何をするのが必要なのかを、割り出してきちんとこなしてゆくことが大事なのだということなのです。
ある修行僧は今思っていることは、目の前のことをコツコツやっていること、ご飯をいただくときにはご飯そのものに向き合って幸せを感じられるように努めていると答えていました。
百パーセント今に向き合うように努力しているというのです。
二十年後の自分はというと、おそらく寺の住職になっているでしょうから、今のお寺は敷居が高いと言われ、気軽に訪ねにくいので、もっとどんな人でも気軽に足を運べるように、いろんな人の近くで話ができるようになりたいと答えていました。
栗山さんへの質問の第一番は、修行道場の体験をしてみて何を感じたかを教えてくださいというものでした。
栗山さんは、この修行道場というのは、これだけ変化の激しい時代の中にあって薪を割ってご飯を炊くなど昔ながらの暮らしを残して、人としての一番大切なことを学んでいるところだと感じたとおっしゃいました。
それから坐禅した時の感動も述べてくれました。
あれだけ大勢の人が坐っているのに、初めて人の気配を感じないという体験をしたというのです。
そして一回の食事の大切さを感じたとも言われて、この食事の大切さはこれからも機会があれば話をして伝えてゆきたいと言ってくださいました。
これから禅僧として世に出て行く私たちに栗山さんが期待していることは何ですかという問いもありました。
栗山さんは有り難いことに、私との出会いの話をされて、自分がなにか困った時、行き詰まった時に、ふと訪ねて相談できる人を求めていたのだとおっしゃいました。
世間の人がなにか困ったことがあったときに、相談できるお坊さんになってほしいということを言ってくださいました。
これからますます世の中が不安になってくると、禅僧の存在は一層必要になってくるし、世の中を変えてゆく力もあるとおっしゃってくださいました。
そのほかにも活発に問答が行われて気がつくとすっかり日が暮れていました。
それでもとても充実した一日でありました。
修行僧達も栗山さんに接して大きな力をもらったことだろうと感じました。
横田南嶺