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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.01.15
今日の言葉

無事に感謝して励む

インフルエンザが流行していると耳にしています。

寺の中でもちらほら、誰それがインフルエンザになったと耳にします。

修行道場でも、二人三人と罹患して発熱しているようになってきました。

若い修行僧達と預かっていると、なによりも祈り願うことはみんなが無事でありますようにということにつきます。

一所懸命に修行してほしいことは当然でありますが、その前にやはり健康でけがもなく病気もなく無事であることをお祈りします。

前管長の足立老師が、よく「長閑さや願いなき身の初詣」という句を揮毫なさっていました。

神様にはお願いごとをするのではなくて、ただ有り難うございますと感謝だけすればいいのだと教わってきました。

私たちは何かを得られることを願うものです。

今の自分にはない何かを得たいと思うものです。

今欠けている何かを、それを充たしたいと願います。

運ということを考えても、幸運というと、何か特別なことが現れることを思うものです。

しかし、考えてみると、すでに幸運であることにはなかなか気がつかないのです。

まずはお互いがこの世に生まれたこと、これは幸運であります。

死にゆく命も多い中で、無事この世に生まれたこと、産声をあげたことは幸運です。

そして誰かが食べ物飲み物、着る物をくださったのです。

人間は、誰も食べさせてくれず、飲ませてくれず、着させてくれないと死んでしまうものです。

親や家族や或いは病院など、誰かが食べさせてくれ、飲ませてくれ、着させてくれたのです。

これは幸運であります。

それから無事に学校に入れてもらえました。

世界には学校に行けない子も大勢います。

日本でもかつては全員が学校に行けるわけではありませんでした。

学校に行くということは幸運なのです。

文字を教わることは幸せなのです。

そして今この場所に坐っていることは幸運であります。

どこからミサイルが落ちてくれでもなし、爆弾が仕掛けられているでもなし、床が抜け落ちるでもなし、無事に坐っていられるのです。

これは幸運であります。

今どこも痛くないのは幸運であります。

そう考えてみると私たちは今すでにかなり幸運なのです。

まして神社に初詣が出来るというのは、そのこと自体が幸運です。

電車なり車なり、或いは歩いて行くにせよ、そうして歩けること、お参りできること自体が実に幸運です。

無事に柏手を打って拝礼できるだけで素晴らしい幸運なのです。

そう考えてみると、もうこれ以上望むものはありません。

おかげさまでありがとうございますという感謝しかないのであります。

無事であることが有り難いのです。

無事はどんな意味は『広辞苑』には、

まず「①取り立てて言うほどの変わったことのないこと。」とあります。

そして「㋐事変のないこと。危険・災害・大過などが起こらない状態。平穏。」という解説があって、『太平記』からの用例で「今四海一時に定(しず)まつて万民無事の化に誇ること」。

「航海の無事を祈る」「無事終了した」という用例が書かれています。

そして無事の反対語は有事とも書かれています。

それから「㋑つつがないこと。健康なこと。」とあります。

「無事の姿を見立て」。「無事にお過ごしと存じます」という用例があります。

更に「②自然のままで何も人為を加えないこと。」

として「只道士の術を学んで無為を業とし、無事を事とす」という『太平記』からの用例があります。

最後に「③ひまなこと。なすべき事がないこと。「無事に苦しむ」」と書かれています。

『禅学大辞典』には

問題がない。事が起らない。用事がない。

②寂静無為の境涯。本来の自己に立ち還った安らかさ。」

また「無事界裡」として

「 ①求むべき佛もなく、行ずべき道もないと考える、あやまったさとりの境界。

②任運無作の絶対の境地」と書かれています。

そして「無事是れ貴人」という言葉があります。

「臨済義玄の言葉。無事は無為のこと。

無為とは、「平常心是道」というありかたで、一切の造作を排して無心に道に合すること。」

と解説されています。

また「無事禅」というと、

「悟りを求めることなく、また省悟のない修業をする禅。

看話禅の立場から、黙照禅を称して無事禅、枯木死灰禅などと蔑称した。 」

という解説もあります。

「無事の人」は

「人間本来のすがたに徹し、淡淡として生きる人。

佛道に徹している僧や絶対の境地に安住している僧をいう。」

と書かれています。

入矢義高先生の『禅語辞典』には、

「無事

① なすべきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謐な世界のありよう。

②「さあ、もう用はない。」上堂説法のしめくくりにいう言葉。

③ よせば良いのに。わざわざ。」

という意味が書かれています。

そして「無事禅」というと、

「仏法は修むべきなく証すべきなし(馬祖や臨済の常套語)と思いこんで、何もしなくてよいと収まりかえっていること。

宋の大慧はこれを「無事甲裏に坐在す」(無事という楼閣の中でアグラをかく)と呼んだ」

と解説されています。

また「無事の人」というと、
「もはやなすべきことがなにもない人」です。

「無事是貴人」は「なすべきことのもはやない者こそ貴人である。」という意味です。

まとめますと、無事には本来の自己に立ち返ったありのままの素晴らしさを表す場合と、無事禅というと、なにも修行することなどないとおさまり返っている、批判されるべきものという二つの意味があります。

前者は馬祖禅師や臨済禅師に代表される唐代の禅僧の教えです。

後者は宋代の禅僧たちの教えであります。

本来ありのままで仏であるという教えと、そのままではだめだという教えと相反するように思われますが、どちらも大切な教えです。

みんな病気もせずけがもなく無事で有り難いと感謝することも大事ですし、そのことに感謝して頑張ろうと精進努力することも大事なのです。

無事であることに感謝して、そして努力し励むのです。

 
横田南嶺

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