十三歳で「既に老いたり」
今年入ったばかりの修行僧に、自分はもう年老いたと感じることがありますかと聞くと、さすがに二十代の青年はそんなことはないと答えます。
人は何歳頃から、「老いたり」と感じるものでしょうか。
五十代からか、はたまた六十代からか、いろいろあるでしょう。
明恵上人という方は、なんと十三歳の時に、
「今は早十三に成りぬ。既に年老いたり。死なん事近づきぬらん。」
と心に思ったのです。
実に、これが無常観なのです。
体の機能が衰えてきてようやく老を感じるというものではありません。
谷川俊太郎さんが、「鋏」という詩で、鋏のことを、
「錆びつつあるものである、
鈍りつつあるものである、
古くさくなりつつあるものである。」
と詠ったように、新しく出来た時から、実は鋏は、錆びつつあり、鈍りつつあるものなのです。
人も、生まれたそのときから、老いつつあるものであり、病みつつあるものであり、死につつあるものなのです。
これが無常ということなのです。
十三歳だから、死の恐れや不安などないということはないのです。
私は、子供の頃から死ということを考えてきましたので、はじめてこの明恵上人の言葉に触れた時には、自分の思いと同じだと共感したものでした。
もっとも明恵上人に比べるようなものは私にはかけらもありはしません。
あと共通しているのは、紀州の生まれだということくらいです。
明恵上人が、『臘八示衆』に出てくるのは、栄西禅師が宋の国から茶をもってきて、それを栂尾の明恵上人に差し上げたという話です。
明恵上人は、栄西禅師よりは三十二歳もお若いのです。
岩波書店の『仏教辞典』には、明恵上人について次のように書かれています。
一一七三(承安三)ー一二三二(貞永一)
鎌倉時代の華厳宗の僧。
明恵は号。諱は高弁。
紀伊(和歌山県)の人。平重国の子。
幼くして両親をなくし、高雄の神護寺に登って文覚に師事、一六歳で東大寺で受戒、以後主に華厳を学ぶ。
二十三歳の時、紀伊の白上峰に籠り、以後一時高雄に戻ったほか、三十四歳までほとんど紀伊で過ごした。
一二〇六年(建永一)三十四歳の時、後鳥羽院より高雄の奥の栂尾の地を賜わり、高山寺を建てて華厳の道場とした。
以後この地において道俗の教化に努め教団を樹立した。」
と解説されています。
私は、この明恵上人ほど純粋な思いのお坊さんはいないと思って尊敬しています。
十三歳で既に老いたり、死の時が近づいたと思った明恵上人は、今まで生きてこられたことこそ不思議だと仰っています。
ひたすら修行をしなければならないと思い、いろんな見解が起きてくるので、この体あるから、いろんな考えが湧いてくるのだから、このまま死んでしまった方がいいと思われました。
そして死体が捨てられているようなところで、橫になって、獣に食われてしまおうと思ったのでした。
夜中に、野犬などが近くの死体を食べている音がします。
そこで橫になっていると、犬などが近づいてきて、上人のにおいを嗅いだりしますが、食べずに去ってゆきました。
明恵上人は、吾が身を捨てようとしても、定められた命が尽きるまでは死なないのだと気がつきました。
壮絶なのは耳を切ったという話です。
お釈迦様が御遺戒で、弟子達に、
「汝等比丘、当に自ら頭を摩して、已に飾好を捨て、壊色の衣を著すべし」と仰せになりました。
頭を剃って、壊色という黒や紺や茶という質素な法衣を着るのです。
それは飾るこころ、傲る心を捨てるのです。
しかし、末世になると、頭を剃っても、そのきれいに剃った頭を誇るようになります。
壊色の法衣をどこかで自慢するようになります。
これは修行僧でもよくあることです。
たしかに麻や木綿の粗末な衣を着ています。
つぎはぎになっていることもあります。
しかし、心のどこかに、この粗末な法衣を誇るところがあるものです。
これも慢心なのです。
明恵上人は自分自身それが許せませんでした。
末世の僧は頭を剃り、壊色の法衣を着るくらいではだめだ、もっと身をやつさないといけないと思ったのでした。
「道の為に身をやつさば、眼をもくじり、鼻をも切り、耳をもそぎ、手足をも断ち尽すべし。」というのです。
しかし、目をつぶしてしまうと、お経を見ることができなくなります。
鼻をそいでしまうと、鼻水が垂れてしまい、お経を汚してしまうかもしれません。
手を切ってしまうと、印を結んだりできません。
ただ耳は切ってしまっても聞こえるだろうと思ったのでした。
そこで仏前にお経をあげて、自ら右の耳を切ったというのです。
血がほとばしり、本尊様や、仏具などにも飛んだのでした。
すさまじい話であります。
そこまでして純真に仏道を求められたのでした。
自分自身に対してはそれほど厳しい明恵上人ですが、蟻や虫、犬や鳥、お百姓さんに到るまで皆仏心を備えた尊いものとして、犬が橫になっているそばを通るときでも尊い人に対するかのように丁寧に頭を下げて身をかがめて通ったというのです。
壁を隔てていても人が橫になっている方向に足を伸ばすこともありませんでした。
またあるときに坐禅していると、後ろの竹藪で小鳥が襲われているから助けるようにと侍者に告げました。
侍者が裏に行ってみると、果たして鷹が雀を襲っていたのでした。
そこで追い払ってあげたというのです。
また手桶に虫が落ちているから助けてあげてと侍者に言われて、侍者が行ってみると蜂が手桶に落ちていて救ってあげたという話もあります。
明恵上人は、
「我に一の明言あり。我は後生資からんとは申さず。只現世に有るべき様にて有らんと申す也。」
と仰せになって、「あるべきようは」の七寺を大事にされました。
僧は僧としてのあるべきようをひたすら求めた生涯でした。
仏弟子としてふさわしい生き方を生涯かけて求めたのです。
遺訓の中に、
「凡そ仏道修行には、何の具足も入らぬ也。
松風に睡りを覚まし、朗月を友として、 究め来り究め去るより外の事なし。」
という一語があります。
私もかつて修行時代に幾たびか栂尾の高山寺を訪ねて明恵上人のことを思ったものでした。
とてもとても明恵上人には及びもしませんが、お慕いする気持ちだけは変わりないものです。
若い修行僧たちにも、明恵上人の話は心に響くものがあったようであります。
横田南嶺