毎日の禅問答
この心がすでに仏なのですから、外に向かって何も求める必要はありません。
『馬祖の語録』には、「そもそも、法を求める者は求めるものがあってはならない。心の外に別の仏は無く、仏の外に別の心は無い。
善に執せず、悪をも遮断せず、浄と穢の二極のどちらにも依存せず、罪が本質的に空であることを達得すれば、間断なく続く念もたち切られてしまう。
念には固定的な本質は無いからである。
それ故に一切世界はただ心のみであり、あらゆる現象は一法が印を捺した現われなのである」と説かれています。
また「僧が問うた、「どういうのが道を修することですか」。
答え、「道は修行に関係はない。もし習い修めることが可能と言うなら、それが完成した時点で壊れてしまい、声聞と同じことだ。もし習い修めないと言うなら、凡夫と同じことだ」という問答もあります。
臨済禅師もまたその教えを受け継いでいます。
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」
と説かれているのです。
しかし、同時に臨済禅師は、まだ何も分からなかった頃は、「黒漫漫地」だったとも仰っています。
みな仏なのでありますが、そのことに気がつかないと真っ暗な中をさまよい、あちらこちらに道を求めることになってしまいます。
生まれたまま、ありのままではいけないのです。
臨済禅師も体究錬磨してあるときふと気がついたのでした。
その体究錬磨の方法をあれこれと試行錯誤して編み出したのが公案禅や看話禅と呼ばれる方法であります。
小川隆先生の『語録の思想史』には、公案禅についてわかりやすく解説してくれています。
引用させてもらいます。
「そもそも宋代の禅は、ひとことで言えば「公案禅」の時代である。唐代の禅問答が、いわば修行の現場で偶発的に生起する、一回性の活きた問答であったのに対し、宋代の禅門では、先人の問答が共有の古典―すなわち「公案」ーとして選択・編集され、それを題材として参究することが、修行の重要な項目とされるようになるのである(その萌芽はすでに『祖堂集』に見える)。
参究のしかたは多様だが、それはおおむね、次のような二つの形態に整理することができる。
(一)「代別語」「頌古」「拈古」「評唱」等の語句を付すことによって「公案」の批評や再解釈を行う、いわゆる「文字禅」の風。
(二) 特定の「公案」に全意識を集中することで意識を臨界点まで追いつめ、そこで意識の爆発をおこして劇的な「大悟」の体験を得させようとする「看話禅」の技法。」
というものです。
大慧禅師は、士大夫という在家の修行者に、公案を与えて修行をさせていました。
『大慧書』には次のように説かれています。
「ただ妄想顚倒の心、思量分別の心、生を好み死を悪む心、知見解会の心、静をねがい動をいとう心を、一度におさえつけ、そのおさえつけるところについて、話頭を参究なさい。
(たとえば)ある僧が趙州に、「狗子にも仏性があるのでしょうか」とたずねる。趙州は、「無い」とこたえる。
この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器です。(この「無」を悟るのに)有無の意識をおこしてはいけません。
理窟の意識をおこしてはいけません。意根によって思量し臆度してはいけません。眉をあげ目をまばたくところにじっとしていてはいけません。
言句の上でその場しのぎをしてはいけません。無事そのものの中にとどまってはいけません。挙示されたことについて早合点をしてはいけません。
文字にとらわれて証拠がためをしてはいけません。ただ朝から晩まで行住坐臥の中で、いつも工夫し、いつも気を引き立てなさい。
「狗子にも仏性があるのでしょうか。」「無い」(と言った工合に。)
日常の(暮し)から離れないで、ためしにこんな風に工夫をしてみなさい。ひと月はおろか十日のうちにはじきに分るでしょう。」
というものです。
こうして、ひとつの公案に精神を集中して、修行する方法ができあがっていったのでした。
岩波書店の『仏教辞典』にある解説が詳しいので引用します。
「看話禅 かんなぜん
<看>は、じっと見守る、注視するの意、<話>は、話頭すなわち公案(古則公案)を指し、禅宗において、公案に参究することで悟りを開こうとする立場をいう。公案を用いるので<公案禅>と呼ばれる場合もある。
唐から五代にかけては多くの禅匠が輩出し、彼らの間で多種多様な禅問答が行われたが、そのうちの特に優れたものが、<悟り>の典型的表現、<公案>として広く流布するようになった。
それゆえ、公案は、もともと禅匠たちの拈古(ねんこ)や頌古(じゅこ)の対象であったのであるが、後になると、学徒に悟りを開かせる手段として用いられるようになった。
すなわち、悟りは疑団の打破によってもたらされるのであるが、その疑団を起こすためにこれが用いられたのである。
それにともなって効果的に疑団を起こすことのできる<趙州無字(じょうしゅうむじ)>などの比較的少数の公案が用いられる傾向が強まった。
これが<看話禅>であって、宋代に臨済宗の大慧宗杲(だいえそうこう)において方法論的に確立を見たとされている。この方法は開悟の体験を得るという点で顕著な成果を上げたため大いに流布し、士大夫層にも広まっていった。」
そんな宋代の禅が、鎌倉時代に日本に伝わったのでした。
そしてその方法を用いて、今も毎日の禅問答を繰り返しているのです。
横田南嶺