幸せな最期を迎えるために
ほろ酔い勉強会といって、もう268回にもなる勉強会であります。
コロナ禍の前から毎年お招きいただいて勉強させてもらっています。
諏訪中央病院の須田万勢先生がお招きくださっています。
毎年、漢方医の桜井竜生先生と共にお話をさせてもらっています。
諏訪中央病院は、鎌田實先生が院長だった病院で、今鎌田先生は名誉院長になっておられます。
会場には百名を超える方々がお集まりになっていました。
幸せな最期を迎えるというのは、多くの方にとって興味関心のあるものであります。
今回は、諏訪中央病院の方お二人が、先にお話をしてくださっていました。
最初の方は、在宅看取りについて、もうお一人の方は「お食いじめ」についてのお話でした。
在宅看取りについては興味のあるところです。
多くの方ができれば慣れ親しんだ自宅で最期を迎えたいと思うものです。
発表では、まず1950年代では、八割から九割の方が自宅で亡くなっていたのだと説明されました。
それが今や八割の方が病院でなくなり、自宅で亡くなるのは二割ほどになっています。
しかし、その六割の方は自宅で最期を迎えたいと望んでいるのだそうです。
更に自宅で最期を迎えることが可能かと思うかと聞くと、六割の方が介護の負担のことを思い難しいと考えているそうなのです。
こういった資料から、多くの方は自宅で最期を迎えたいと思いながらも実際には難しいと思う方が多いと分かります。
そこで、まず生前から、自分の最期を病院で迎えるのか、施設なのか自宅なのかをあらかじめ考えておいた方がよいというのであります。
お話くださった看護師の方は、諏訪中央病院で在宅看取りをなさっているのです。
年間二十件ほどみとっておられるということでした。
コロナ禍になって、入院するともう家族と会えなくなるというので、少し在宅で看取ることが多くなっているというのです。
昔ですと、大所帯でしたので、在宅で看取ることも可能でしたが、今はどうなのかという話に入ってゆきました。
難しいと思うかもしれませんが、今はケアマネージャーなどいろんなサービスを受けられるので、相談すればいろいろと可能性はあるのだというお話でした。
七十代の女性が、五十代の息子さんと二人暮らしで、自宅での最期を希望されて、最期まで自宅で看取られた実例を紹介してくれました。
それから、次には「お食いじめ」についての発表でした。
お食いじめとはあまり聞き慣れないことばです。
お食い初めに対する造語だそうです。
お食い初めは、はじめて子供にご飯を食べさせる祝い事です。
お食い初めがあるのだから、お食いじめもあるだろうというのです。
人生の最期に何を食べたいのかということを考えるのです。
この最期の食事を支援するというのです。
まわりの家族などは、あなたのために食べさせたいと思い、ご本人もまた大事な家族のために食べたいと思うのです。
60代の重い病の方の実例が紹介されていました。
最期にウナギを食べたいというのです。
家族は好きだったお酒も飲ませたいということでした。
奥様と娘さんと一緒にうな重とお吸い物、それにお酒で最期の食事会をなさったのでした。
奥様は新婚の頃からの思い出話をして、娘さんも幼かった頃の思い出を語ります。
そろそろ食べようかと、お酒を一口さしあげ、ウナギも一口を四回かけて飲み込み、もう一口を三回かけて飲み込まれて、最後に有り難うと言われると拍手が沸き起こったというはなしでした。
ウナギをもって家族と写った写真は素敵な笑顔でした。
実に幸せな最期だったと感じました。
そんなお二人のあと私が話しをしました。
まずお二人のお話に深く感銘を受けたと申し上げました。
幸せな最期をどう迎えるのか、生前に考えておくことは大事であります。
しかし、人生はどうなるか分かりません。
いくら考えていても思い通りになるかどうかは分からないのです。
そこでやはりどのような死を迎えてもよいいように死生観を持っておくことの大切さをお話しました。
中学生か高校生の頃に見たNHK教育テレビ「宗教の時間」で井上義衍老師(曹洞宗師家)と横尾忠則さんの対談の話をしました。
横尾さんが「老師には死の恐怖はありませんか」と問うと、井上老師は、「死なんて、小便するのと同じことですわ、ただそうだったというだけ」とお答えになったのでした。
死についてあれこれ考えていた私は、この言葉に衝撃を受けました。
実際はそのように、死というのはひとつの現象に過ぎないと言えるのでしょう。
ただそのように受け止められないので、あれこれと悩むのです。
山本玄峰老師は、お亡くなりになる前に葡萄酒をおいしそうに飲んで、十分ほどのちに「旅に出る、きものを用意しろ」と言われて亡くなられたそうです。
それから「生は寄なり、死は帰なり」という『淮南子』の言葉を紹介しました。
「人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである」という意味です。
朝比奈宗源老師は、この「天地の本源」を「仏心」と説かれました。
「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」のです。
そのことをしっかり受け止めておきさえすれば、柳宗悦さんが、「吉野山 ころびても亦 花の中」と詠われたように、どこでどのような死に方を迎えても、それは万朶の花咲くただ中なのだとお話したのでした。
最後には桜井先生が漢方医の立場からお話くださいました。
桜井先生は、幼少の頃から死について考え、西洋医学の外科医になり、更に法医学も学ばれました。
法医学者として多くの悲惨な死もご覧になってきたそうなのです。
そしてひとつの確信を持たれたのでした。
見た目ではどんな悲惨な死を迎えたようでも、どんな状況であっても死の祝福があるというのです。
どこでどういう状況で亡くなっても祝福されていると確信されたと話をしてくださいました。
これは私の拙い話を裏付けてくれるもので有り難く思いました。
終わりに桜井先生は捨てる覚悟が大事だと説かれました。
死というのは捨てていく営みだというのです。
はじめに趣味を捨て、お金に対する執着を捨て、異性に対する関心も捨て、家族との関わりも捨ててゆくというのです。
みな手放してゆくのだというのです。
最後に残るのは自然とのふれあいだと説かれていました。
窓を開けて心地よい風に吹かれたいとか、星を見たいと思うのだそうです。
ともあれ死はこの世のすべてを手放してゆくのです。
そこで幸せな最期を迎えようと思うなら、普段から手放すこと、出すことを訓練しておくことだと仰っていました。
何かを得ることばかり考えるのではなく、与える生き方をするというのです。
特別な寄付をするというようなことだけでなく、日常の暮らしでも笑顔を与えるというのもそうなのです。
なにか手伝ってあげるというのもそうです。
このように出すこと、手放すことに慣れていると、最期ににっこり微笑んで迎えることができるというお話でした。
これはなるほどと深く受け入れることの出来るお話でした。
いろいろと学べて実りの多いほろ酔い勉強会でありました。
横田南嶺