一休さん
長年修行道場で暮らしてきましたので、なんでもいただけるものは有り難く頂戴しています。
ただ禅僧の中でどうにも苦手と感じる方がいらっしゃいます。
それが一休さんです。
一休さんほど、その名が世に知られた禅僧はないでしょう。
臨済宗を日本に伝えた栄西禅師や、江戸時代に今日の臨済禅の礎を築いた白隠禅師よりも広く知られています。
子供でもその名前を知っているでしょうし、海外にも知られているのです。
ただし、そのよく知られた一休さんは、アニメの一休さん、かわいくてトンチのきく利発な小僧さんです。
このアニメの一休さん、トンチの一休さんと、実在の一休さんとでは、かなりの隔てがあります。
そしてその多くはつながってはいないのであります。
トンチの話などの多くは、江戸時代にできあがった話なのであります。
では実際の一休さんはどんな方だったのでしょうか。
『広辞苑』には、
「室町中期の臨済宗の僧。
諱は宗純、号は狂雲。一休は字(あざな)。
後小松天皇の落胤といわれる。
京都大徳寺の住持。
詩・狂詩に巧みで書画をよくする。
禅宗の腐敗に抗し、奇行が多かった。
詩集「狂雲集」。
一休諸国咄などに伝説化され、小説・戯曲に描かれる。(1394~1481)」
と書かれています。
一休さんが世に生まれたのは、足利義満が将軍となり、南北朝の時代も終わった頃であります。
そして晩年には応仁の乱にも遭っています。
この『広辞苑』の解説は簡潔ですが、よく要点をまとめています。
「後小松天皇の落胤といわれる」というのも、よい表現です。
断定はしていないのです。
いろんな説があるのですが、そのように言われているのです。
大徳寺の住持になっている方であります。
晩年のことであります。
漢詩にすぐれているのであります。
狂雲集という漢詩集はとても難解であります。
「禅宗の腐敗に抗し、奇行が多かった。」というのが、よく一休さんを表しています。
当時の禅宗の腐敗した様子がたまらなかったようなのです。
苦手な一休さんで今まで一休さんについて話をしたことがなかったのですが、先日初めて一休さんについて話をしてみました。
いろいろ調べていって、かなり苦手意識が薄らぎました。
お名前が宗純というように、この方のご生涯は、実にこの「純」なることを貫かれたのだと思うのです。
このところ長らく夢窓国師について書いてきましたが、夢窓国師と同時代に活躍された禅僧に大灯国師がいらっしゃいます。
このお二方は対照的なのです。
大灯国師が夢窓国師を批判している記述が残されています。
夢窓国師は、南禅寺に住し、天龍寺も開山していますように、五山の僧であります。
五山は幕府の保護を受け、幕府の統制下にありました。
それとは異なる道を歩んだのが「林下」と呼ばれる一派であります。
そのひとつが大徳寺であります。
大灯国師が大徳寺を開創されたのが、一三一五年です。
一休さんのお生まれになったのが、一三九四年ですから、大徳寺ができて八十年ほど後にお生まれになっているのです。
およそ百年も経っていくと開創の精神が失われつつあることに耐えがたかったのが一休さんであります。
お家の事情からだろうと推察されますが、六歳で出家しています。
安国寺で像外という和尚のもとで周建と名付けられています。
像外という方は夢窓国師の法孫であります。
それから十三歳で建仁寺で慕喆禅師について漢詩を学ばれています。
十六歳の頃、建仁寺入制の日に僧たちがそれぞれの家柄を自慢し合ってるのを耳にして、耳を掩って堂から飛び出し、その怒りを偈に表されています。
純粋なご性格がよくわかる逸話です。
十七歳になって西金寺の謙翁禅師について修行しました。
それまでは五山で修行していたのですが、五山をお出になったのでした。
謙翁禅師は無因禅師のお弟子ですが、印可を受け取らなかったという方です。
一休さんも後に師匠からの印可を受け取らずにいましたので、この謙翁禅師の影響もあったかと察します。
私淑していた謙翁禅師がお亡くなりになって、一休さんは琵琶湖で入水しようとまでされています。
これまた純粋なるご性格の故であろうと察します。
その後、一休さんは華叟禅師に出会うのです。
この華叟禅師のもとで修行に励み、悟りを開くのでした。
華叟禅師はご自身大徳寺に入りになっていませんが、師の言外禅師は大徳寺の住持でありました。
一休さんは大徳寺の禅に参じたのであります。
言外禅師の三十三回忌の法要に華叟禅師が参列された時には、一休さんも同行したのですが、粗末な法衣を着た一休さんを華叟禅師がたしなめました。
一休さんは、私がみんなを引き立てているのですと答えたという話が残っています。
後に都のお金持ちの家の法要に導師を頼まれて、まずわざと粗末な格好をして出向いて、門前払いを食らわされてしまいます。
そして今度は立派な法衣を着てゆくと丁重に出迎えられるのですが、衣だけ脱いで、あなた方が尊んでいるのはこの法衣でしょうと、法衣を脱ぎ捨てて帰ったという話になっていくのであります。
後にはいろんな話が作られてゆく一休さんですが、その実際のお姿は見えにくいのです。
しかし学んでゆくとひたむきに禅に参じた純粋なご性格が浮かび上がってくるのであります。
横田南嶺