誠の道 – 中江藤樹に学ぶ –
そこで取り上げられた先達というのが、中江藤樹、鈴木正三、石田梅岩、二宮尊徳の四人でした。
わたくしが担当したのが鈴木正三でした。
その日は一日空いていましたので、すべての先生方の講演を拝聴してきました。
私は第二講を勤めました。
第一講は中江藤樹について中江彰先生が講演されました。
中江先生は中江藤樹記念館の館長もおつとめになった方であります。
中江藤樹とはどんな人物なのか、中江先生の著書『中江藤樹 人生百訓』(致知出版社)の序文に次のように書かれています。
引用します。
「中江藤樹は、慶長十三年(1608)、近江国高島郡小川村の農家の長子に生まれたが、九歳のとき、米子藩主加藤貞泰に仕えていた祖父の手もとで育てられ、十五歳のとき、その家督をついで伊予大洲藩士になった。
十八歳、故郷の父が死去する。十九歳、郡奉行に任ぜられる。
だが、故郷にひとり住まう病弱の母を思いやり、二十五歳のころから上司に辞職を願いでたものの、その許可はなかなか下りなかった。
二十七歳の冬、ついに死罪を覚悟のうえで脱藩を決行する。
京都の友人宅で、みずから蟄居するが、藩からのお咎めはなく、ようやく念願の帰郷をその年の十二月にはたすことができた。
家禄百石の安定した藩士から、いわば「無一物」の浪人になった藤樹は、慶安元年(1648)、四十一歳で亡くなるまでの十四年間、近江の寒村において、清貧の生活にあまんじながら、母への侍養をつくす一方、住居に隣接して質素な「会所」を建てて、大洲から慕ってきた門人には《孔孟の学》を説き、また郷党の人びとには〈人としての道》を教育善導した。そうして、この藤樹書院から、熊沢蕃山をはじめ、おおくの逸材が輩出したことは、周知のとおりである。」
と書かれています。
近江聖人とも称せられた日本の偉人であります。
中江藤樹の馬方の話は有名で明治以降修身の教科書にもよく載せられたものです。
近江の河原市村に中西又左衛門という人がいました。
馬方といって、馬を出して旅人を乗せて駄賃をもらっていました。
加賀からの客が来て、河原から馬に乗って京の都の藩屋敷に向かいました。
藩の大事な公金を届ける役目でありました。
宿についてみると、自分の財布がないことに気がつきました。
盗れないように馬の鞍の下に置いていたのでした。
二百両の大金で、今の金額だと二千万円にもなるだろうということでした。
公金をなくして困っていると、夜に木戸を扣く音がしました。
誰かと思うと、馬方でした。
馬方が、忘れ物を届けにきたといいます。
客もまた大事な公金を鞍の下に忘れたといいます。
念の為にどんな財布でいくら入っていたのかを聞きました。
聞いて間違いがないと確信して馬方はそのお金を渡しました。
七里もの道を届けに来てくれた馬方にお礼を渡そうとしますが、馬方は受け取りません。
あなたのお金を届けにきただけだというのです。
せめて十両をあげようかというけど、いらないといいます。
三両、二両といって、とうとう二百文ならというので受け取ってもらったのでした。
二百文というと今では五千円くらいだというのです。
そのお金でお酒を二升買ってきて泊まり客に振る舞って飲んでもらったというのです。
その客は馬方に聞きました。
七里もの道をお金を届けにきてどうしてお礼もとらないのかと。
馬方は藤樹先生からいつも人の道を教えてもらっていると答えました。
財布は自分のものではないのでお返しするのは当たり前だというのです。
客は京の藩邸に無事お金を届けて、京の宿でその近江の正直な馬方の話をしていました。
それを障子越しに聞いていたのが当時浪人中の熊沢蕃山でした。
蕃山は村人にこれほどの感化を与えるとは、これこそ我が求める師であると、藤樹先生の門をたたくのでした。
蕃山は三日三晩お願いして藤樹先生に学ぶことができるようになったというのです。
中江藤樹は、近江で二十七歳から四十一歳まで十四年間、儒学を教えていたのですが、その名が江戸にまでも広まったのは、蕃山が広めたからだとおっしゃっていました。
中江藤樹の『翁問答』に
「われ人の身のうちに、至徳要道といえる、天下無双の霊宝あり。
このたからを用て、心にまもり身におこなう要領とする也。」という一文があります。
中江彰先生は、『中江藤樹 人生百訓』で
「この文章は、いまだ世相の不安定な徳川社会にあって、これからいかなる人生を歩んでいくべきかという体充(門人)の悩みにたいする師の答えである。
すべての人間の方寸には、この上ないりっぱな徳と重要な道をあわせた「霊宝」がそなわっており、この霊宝を日常生活のなかでじゅうぶんに発揮することが、人として最高の生き方と断言している。」
と解説されています。
先日のご講義でも人はみな「明徳」というダイヤモンドのような宝をもっていると説かれていました。
しかしそのダイヤモンドをくもらせてしまっているというのです。
磨いたらダイヤモンドは光り輝くのです。
また同書には、
「はかなくも悟りいずこに求めけん
誠の道は我にそなわる」という藤樹先生の和歌があり、
中江彰先生は、中江藤樹のことを二十八歳から四十一歳にいたるまで、「つねにその学問の現状に満足せず、一年一年、体認、深化していたことがわかる。
いろいろ試行錯誤のすえ、結局は自分自身のなかに真理があったことに気づく。
その「我にそなわる」ものとは、「明徳」であり、「至徳要道」であり、「良知」であり、さらには『鑑草』に説かれた「明徳仏性」である。名は違っても、おなじ「霊宝」だ。」
と解説されています。
中江藤樹の馬方の話などはよく知っている話ですが、中江彰先生が思いを込めてしみじみとお話くださると、まるで馬方が目の前にいるように感じられます。
同じ話でもその説く人によって大いに訴えるものが違ってくるのだと感じました。
横田南嶺