四苦八苦
四苦八苦という言葉があります。
日常でも使われる言葉で『広辞苑』にも
「①〔仏〕生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称。
②転じて、非常な苦しみ。また、さんざん苦労すること。」と解説されていて、「弁解に四苦八苦する」という用例もあります。
岩波書店の『仏教辞典』でもう少し詳しく調べてみます。
「四苦八苦」とは、
「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称で、原始経典以来説かれる。
<四苦>とは、生(生れること)・老・病・死で、これに怨憎会苦(憎い者と会う苦)、
愛別離苦(愛する者と別れる苦)、求不得苦(不老や不死を求めても得られない苦、
あるいは物質的な欲望が満たされない苦)、五取蘊苦(五盛陰(ごじょうおん)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦とも。
現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は苦であるということ)を加えて<八苦>となる。
後世になると四苦八苦は、人間界のすべての苦ということから、この上ない苦しみ、言語に絶する苦を意味するようにもなった。」
と解説されています。
お釈迦様の教えでも大切にされている四聖諦では、一番目に苦聖諦があります。
この苦を理解するのは、仏教を学ぶにはとても重要なことであります。
修行僧達にも、自分の人生は苦であると思うかと尋ねると、苦と答える者もいれば、そうでもないと答える者もいます。
たしかにこの春に道場に入った者にしてみれば、不自由な暮らしですので、身体的に苦であると感じることが多いでしょう。
今までのイスの暮らしから、畳の上で暮らすことになるだけでも身体的な苦があります。
更に自分の好きなようにできないというストレスがあります。
精神的な苦もあることでしょう。
しかし、仏教で説く苦というのはそういうものではないのです。
その点について、ワールポラ・ラーフラ氏の著書である『ブッダが説いたこと』(今枝由郎訳)を参照してみましょう。
「第一聖諦 ドゥッカの本質」として次のように書かれています。
「パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、あるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。
しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。
確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。
それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。
そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。」
と説かれています。
ここで「苦」には「不完全さ、無常、空しさ、実質のなさ」という意味があるとされています。
更に「<ブッダが、「人生には苦しみがある」と言うとき、彼はけっして人生における幸せを否定しているわけではない。
逆にブッダは、俗人にとっても僧侶にとってもさまざまな精神的、物質的幸せがあることを認めている。
ブッダの教説をまとめたパーリ語の五部経典の一つである増支部経典の中には、家族生活の幸せや隠遁生活の幸せ、
感覚的喜びによる幸せやその放棄による幸せ、執着による幸せや無執着による幸せといった、
さまざまな肉体的、精神的幸せが列挙されている。
しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる。
さらには、高度な瞑想によって得られる、普通の意味での苦しみの片鱗すらない、非常に純粋な精神的次元も、またまぎれもない幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、純粋に沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。
同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経]では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」と述べている。
ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。
普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。」
ということなのです。
岩波書店の『仏教辞典』にも
「肉体的精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないから苦であるとされ、これを苦苦・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)の<三苦>という。」
と解説されています。
苦苦、壊苦、行苦については『ブッダが説いたこと』を参照してみます。
「ドゥッカの概念は、
①普通の意味での苦しみ
②ものごとの移ろいによる苦しみ
③条件付けられた生起としての苦しみ
の三面から考察することができる。
老い、病い、死、嫌な人やものごととの出会い、愛しい人や楽しいこととの別れ、欲しい物が入手できないこと、悲痛、悲嘆、心痛といった、人生におけるあらゆる種類の苦しみは、普通の意味での苦しみである。
人生における幸福感、幸せな境遇は、永遠ではなく、永続しない。
それらは、遅かれ早かれ移ろう。そしてものごとが移ろうときに、痛み、苦しみ、不幸が生じる。
この浮き沈みは、移ろいによって生じる苦しみとしてドゥッカに含まれる。
以上の二種類の苦しみは容易に理解でき、誰にも異論がないだろう。
第一の真理である「ドゥッカの本質」のこの点は容易に理解できるので、一般によく知られている。
それは、誰しもが日常生活で体験することである。」
「しかし、第三の「条件付けられた生起」としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。
仏教的観点からすれば、私たちが一般に存在、個人あるいは「私」と見なしているものは、たえず移ろい変化する肉体的、精神的エネルギーの結合にしか過ぎず、それらは五集合要素から構成されている。
そしてブッダは、
「これら執着の五集合要素はドゥッカである」
と述べている。
また他の箇所では、「ドゥッカとは五集合要素である」とはっきりと定義している。」
と説かれています。
お互いこれが自分だと思い込んでいますが、その自分という実体のあるものはなく、五つの構成要素が集まって、あるように見えているに過ぎないのです。
ありもしない自分を確かにあるものだと思い込んで、自分中心にものごとを見ているのが苦しみの原因なのです。
五つの構成要素が五蘊であります。
五蘊は色受想行識の五つです。
『仏教辞典』には、
<色>は感覚器官を備えた身体、
<受>は苦・楽・不苦不楽の3種の感覚あるいは感受、
<想>は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、
<行>は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、
<識>は認識あるいは判断のこと。
人間を<身心>すなわち肉体(色)とそれを依り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、
この五により個人の存在全体を表し尽していると考える。」と解説されています。
この五蘊によって自己中心の世界観を作り出しています。
これがお互い迷い苦しむ原因なのです。
横田南嶺