唯識を学ぶ
一応サンスクリット語、パーリ語を習い、更にチベット語も勉強していました。
金剛般若経を研究していて、弥勒作と伝えられる金剛経の頌をサンスクリットとチベット語を参照して論文を書いたことを覚えています。
それだけにインド仏教学というのがいかにたいへんな学問であるかを、身をもって体験していました。
私のような者にはとても無理だと分かって、あきらめたのでした。
そんな仏教学を学んでいて、般若経から中観思想を学んでいると、どうしても中観派と対象的な唯識に関心を持つものです。
そんな興味を持ち始めた私に、とある先輩の方が、唯識に手を出すと卒業できなくなると言われたことを覚えています。
それほどまでに唯識という学問は深淵で難解なのであります。
まだ命のあるうちに、もう一度この唯識を勉強しておきたいという気持ちだけを持ってきました。
書物の上では、いろんな唯識について解説書を読んで来ていました。
この度龍雲寺の細川さんと円融寺の阿純章さんとが主催で、僧侶を対象に唯識の勉強会が始まるとご案内いただいたのでした。
是非ともこの機会に学ぼうと思ったのですが、一回目と二回目には、すでに予定が入っていてお伺いできず、講義の録画を拝見して学ばせてもらったのでした。
第三回目には、ちょうど上京して講演する予定があり、その講演の前に講義に出てからでも間に合うと分かったので、講義を拝聴してきました。
講師は駒澤大学の教授である吉村誠先生であります。
一回目と二回目を動画で拝見していましたが、その資料の作り方から、講義の内容、よくぞあれほどの深い内容を話されたと感服していました。
是非とも一度お目にかかってみたいと思っていましたので、今回その願いが叶ったのでした。
控え室で親しくお話させてもらいました。
仏教学の落伍者である私にとって、仏教学の教授である先生は仰ぎ見る存在なのであります。
どれほどたいへんな道のりであるのか多少分かりますので、尊敬の気持ちは人一倍強いのであります。
有り難いことに気さくにお話させてもらいました。
とりわけ熊野にとても関心をお持ちだと分かって、うれしくなりました。
しばらく熊野談義に花が咲いたのでした。
熊野三山についてとても造詣が深く、何度も訪ねてくださっているというのです。
そうしているうちに講義が始まりました。
今回は、有り難いことに瑜伽行派の修行について講義して下さいました。
瑜伽行派というのが、弥勒が創始し、無着と世親の兄弟が組織体系化したと伝えられ、瑜伽行派の論師たちは、時代とともに唯識論者と呼ばれるのです。
「唯識」は「仏教学説の一つ。一切の認識はただ自己の識(心)によって生み出されたもので、認識の対象となる事物的存在はないと説く。」と『広辞苑』に解説されています。
岩波書店の『仏教辞典』には
「あらゆる存在はただ<識>、すなわち<心>にすぎないとする見解。
般若経の空の思想を受けつぎながら、しかも少なくともまず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方をヨーガの実践を通して変革することによって悟りに到達しようとする教えである。」
と説かれています。
瑜伽行派の瑜伽というのは「ヨーガ」のことです。
「ヨーガ」とは、吉村先生は、「心を落ち着けて真理を観察すること」と分かりやすく説明して下さっていました。
この真理を観察することが修行となります。
もともとブッダも真理を観察するようにと教えてくださっていたのでした。
『ブッダ最後の旅』に、
「修行僧たちよ。
ここで、修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけてこの世における貪欲や憂いを除去していなさい。
感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
このようにしてこそ修行僧は正しく念じているのである。」
という言葉があります。
四念処と呼ばれる教えですが、すでに『ブッダ最後の旅』において説かれていることを今回教わりました。
更に部派仏教では、五停心観(ごじょうしんかん)が説かれています。
不浄観、肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止めること、慈悲観で一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止めること、因縁観で、諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、無知の心を止めること、界分別観で五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止めること、そして数息(すそく)観で呼吸を数えて、乱れた心を止めることであります。
数息観について吉村先生は。言葉によって思考することをやめさせる修行だと教えて下さいました。
言葉を使うことによって自我意識が強くなり、煩悩も強くなります。
禅の公案も言葉によって考えることをやめさせるものでもあります。
それから大乗の瞑想は空観なのだと教わりました。
空、無相、無願という三つを観じるのです。
そうしていよいよ瑜伽行派の修行の内容を教わっていったのでした。
解深密経、瑜伽師地論、唯識三十頌などという難解な経典をもとにして解説してくださいました。
瑜伽師地論では、仏教におけるヨーガを体系化して、大乗のヨーガが説かれています。
大乗のシャマタ、ビパシャナについて解説してくださいました。
法仮安立という言葉にされた仏の教えを拠り所として止観を修めるのです。
止の所縁は無分別影像、観の所縁は有分別影像などと難解な言葉が続きます。
それでも先生の明快な解説を聞きながら、メモをとっていると、なんとなく理解できたような思いになるのでした。
私にも唯識の世界の一端が垣間見られたような感慨に耽っていました。
とりわけ今まで学んだことのなかった、瑜伽行派の修行の内容を学べたので、禅の修行との関連も少し分かったように感じました。
分からなかったことがわかり、知らなかったことを知るというのは、大きな喜びであります。
そんな感動のうちに講義が終わったのでした。
ところが寺に帰って復習しようとして、メモしたノートを見返したのですが、やはりよく理解できていないのでした。
講義があまりに素晴らしく、理解できたような気になっていただけと分かったのでした。
専門家が何年もかけて学ぶのが唯識なのですから、私のような門外漢が少し聞いて分かるはずもありません。
それでも、今回のことをご縁に、これからも根気よく学んでいこうと思ったのでした。
横田南嶺