尊敬する人をもつ
比叡山では天台教学を中心に学ばれましたが、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだかれます。
「本来本法性、天然自性身」とは、平たくいうと生きとし生けるものは皆本来仏だという教えであります。
道元禅師様はこの言葉に疑問を感じました。
「人間が本来仏様だというのならば、なぜ、多くの祖師方は血のにじみ出るような修行をする必要があったのだろうか」
という問題です。
そのへんの消息を余語翠厳老師の『従容録』には、第六十九則のところに説かれています。引用させてもらいます。
「ところで、道元禅師が比叡山で修行をしておられる時に、疑問を生じたわけです。
それは、本来本法性、天然自性身という言葉で伝えられていますが、簡単に言うと、人間は本来仏であるというにもかかわらず、どうして修行せねばならないか、ということです。
そういう疑問を持って、叡山のいろいろな師匠たちに尋ね歩いても満足な答えをもらうわけにいかなかったが、三井寺の公胤僧正という人を訪ねてこの問いをした。」
とあって、この僧正の薦めで建仁寺の栄西禅師のもとを訪ねます。
そこで「建仁寺へ行って「本来仏であるのに、なぜ修行しなければならんのか」という同じ質問をして、その時にもらった答が、これだったのです。
「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」という、これが栄西さんの答です。
それをどういうふうに受け取られたかは書いてないのですが、この答をもらって道元さんは禅門に鞍替えをされるわけです。」
と書かれています。
一二一四年に建仁寺に行って栄西禅師のもとで修行されました。
栄西禅師は、一二一五年にお亡くなりになっていますので、わずかの期間でありました。
栄西禅師がお亡くなりになった後は、明全和尚に参じておられます。
短い期間ではありましたが、栄西禅師のことは道元禅師のお心にはとても印象深く残っていたようであります。
『正法眼蔵随聞記』には栄西禅師のことがしばしば出ています。
『正法眼蔵随聞記』二には、
「宋国の寺院などでは、すべて雑談をすることがないのだから、いうまでもないことだ。
わが国でも、近時、建仁寺の僧正、栄西禅師が御在世のときには、全く、かりそめにも、その様なみだらな話しは誰もしなかったものだ。
僧正がお亡なりになって後も、僧正の直弟子たちが、わずかでも存命の間は、一切そのようなことはなかった。
最近、七、八年以来、 いまどきの若い僧たちの間で、しばしば行われているのだ。もってのほかの有りさまである」(講談社学術文庫 山崎正一訳)
などと語っておられます。
栄西禅師の頃は厳格に修行されていたことがよく伝わります。
またこんな逸話も残されています。
『正法眼蔵随聞記』一にあります、栄西禅師の話であります。
「仏道をおさめた人の心くばりは、常人とは違っていることがある。
すでに亡くなられた建仁寺の僧正、栄西禅師(一一四一 ~ 一二一五)が、まだ在世のときのことだが、寺の食料がつきて、一同みな絶食となったことがある。
そうしたある時、たまたま一人の施主が僧正を招待し、絹一疋を布施した。
僧正は悦び、みずから手にして懐に入れ、人にも持たせず、大切に寺に持ちかえり、知事の僧に与え、「明朝の食事(浄粥=おかゆ)の費用に当てるがよい」といった。
ところが、ある俗人のところから、「まことにお恥ずかしい事情がありまして、絹二、三疋入用となりました。
少しでも御座いましたら、頂戴致したく存じます」という旨の願い出があった。
僧正は直ぐに先の絹を知事から取りかえして、与えてしまった。
そのとき、この知事の僧も、ほかの僧たちもみな、僧正のなされ様を、思いがけぬ事に思い、いぶかしく思った。
後になって、僧正の方から皆の者にいわれるに、「みんなは、私のしたことを、間違っていると思うかもしれない。
だが、私の思うには、お前たち皆の者はそれぞれ仏道に志があって、ここに集まっているのだ。
一日、何も食べないで、飢死したところで、差しつかえはないのだ。
俗世間にある者が、差し当って必要なものがなくて困っている。
その苦しみを助けたならば、お前たち各々のためにも、一日なにも食べないで、それで人の苦しみをなくしてやるのは、はるかに利益たちまさっているであろう」と。
仏道に達した人の深い考えは、およそこのようである。」
という話であります。
これもまた有り難いお話であります。
道元禅師にとっての栄西禅師は、尊敬する理想の僧のように描かれています。
森信三先生は「尊敬する人がいなくなった時、その人の進歩は止まる。尊敬する対象が年とともにはっきりするようでなければ、真の大成は期しがたい」と仰せになっています。
尊敬する人物は、歴史上の人物でもよろしいかと思います。
そして、できれば歴史上の人物だけでなく、現実に接する人の中に見出すことができれば、より一層目指す道がはっきりするものであります。
尊敬する人を持って、その人のことを思っているだけでも、良い方向へと進んでゆくものであります。
横田南嶺