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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.06.10
今日の言葉

第二の人生 – その二 –

四国遍路というのがあります。

『広辞苑』には「四国巡礼・四国順礼」として、

「四国八十八箇所を巡拝すること。

また、その人。

弘法大師の遺徳を慕って歩くことから始まり、室町時代に整い、近世以降盛行。」

と解説されています。

今も大勢の方がお遍路をなさっています。

昨年円覚寺の修行道場に、第二の人生を歩もうと入ってきた修行僧が二人いました。

一人は先日の管長日記で紹介した方です。

もう一人は、大きな企業を定年まで勤めて、六十一歳で修行に来たのでした。

昨年は二人の六十一歳を引き受けたのでした。

お二人ともとても頑張って一年間修行されました。

先日紹介した方はお寺にご縁のあった方で今はその地元のお寺に帰っておられます。

もう一人の方はお寺とご縁があったわけではなく、自ら心をおこして仏門に入られたのでした。

その方は、とてもお元気そのものだったのですが、やはり夏を過ぎた頃からだんだん体調を崩されてゆきました。

これは今までもよくあることです。

年配でお元気な方というのは気力旺盛なのですが、やはり数ヶ月すると弱ってきてしまいます。

なかなか無理は続かないのです。

更に膝が悪くなってしまい、歩くのも困難な状態にまでなりました。

しかし、私のご縁のある指圧師の指導を受けて、更に本人の努力によって、膝もよくなったのでした。

一年終えてどうなさるのかと思っていましたが、四国遍路に行くというのでありますから驚きました。

ほんの少し前まで歩くことも難しかった者が、いくらよくなったからといって四国八十八カ所を歩いて巡拝するというのは無理ではないかと思ったからでした。

しかし、本人の強い意志で無事に四国遍路を終えて帰ってきたのでした。

そこでその歩いて四国遍路を達成した体験談を私たちにお話してもらいました。

四十八日間で廻ってきたそうなのです。

その大半は野宿か通夜堂というところに泊っていたそうなのです。

実に貴重な体験をなされたことがよく分かりました。

遍路の間にいろんな人とめぐりあってきたらしいのです。

人との出会いは人生の財産であります。

若い修行僧たちにも大きな励みになったと思います。

臨済宗で四国遍路がご縁となって出家されたのが山本玄峰老師であります。

私の故郷熊野の出身であります。

『回想 山本玄峰』にある中川宋淵老師の言葉を紹介します。

「青年時代は、山奥のことですから、百姓はもちろん、木挽きをやったり、筏流しをなさったり、ありとあらゆる労働をなさった。

ところが、十八、九歳のころから眼病にかかって、目が見えなくなられた。

それで大阪や京都の病院に入院して二年か三年おられて手当をなさった。

その病院生活の間に、俗謡であろうが何であろうが、人生の裏の裏の、隅の隅のことまで覚えられた。

病院生活が無駄ではなかったのです。

病院にこれほど居ても、どうしても目が治らないので、四国遍路を発願され、はだし参りをなさること七回に及ばれた。

四国八十八個所の霊場を遍路されることが玄峰老師にとっては道場でありました。

老師は晩年まで、しかも去年の病後のいまごろも四国遍路をしておられたのです。

十七回目の遍路であります。

四国遍路七回目のとき、二十五歳でありますが、とうとう土佐の高知の雪蹊寺の門前で行き倒れのようになられた。

このとき、寺内へ担ぎ込んで手当をして下さった方が、そのときの住職の山本太玄和尚であった。」

「その太玄和尚のところにおられる間に出家心のきざしが生じてきて、お坊さんになりたいとおっしゃった。

「お前は坊さんになる人間であろう」

「しかし、ご覧のとおり、目は見えんし、お経といえば南無大師遍照金剛しか知らない。

それでもお坊さんになれるでしょうか」

「通り一遍のお坊さんにはなれぬであろう。しかし、ほんとうに一心になって、死んだ気になってやれば本当の坊さんになることができる」

それから発憤なされて、出家されたのです。」

と書かれています。

玄峰老師はご著書『無門関提唱』の中で、

「寒中の寒いのは何とかなる。わしは寒中四国参りを七回も八回もはだしでやった。寒中の氷の中、雪の中を歩くのはどうにかやっていける、歩くほど温もってくるし、つらいとも何とも思わん。しかし、暑いときに砂利が道などに敷き込んであるところを歩くと、全身にこたえる。」と書かれています。

玄峰老師は、出家して永源寺、祥福寺、宝福寺、虎渓山と各僧堂で修行を重ねられました。

師匠の山本太玄和尚がご病気のため、虎渓山の僧堂から明治三十五年帰られていました。

翌三十六年六月二十八日、太玄和尚が遷化なされてその後を襲いで住職になられたのでた。

年齢は三十八歳でありました。

玄峰老師は雪蹊寺の住職中、京都八幡市の円福寺僧堂から見性宗般老師を拝請して護国会という接心会が開かれたそうです。

この時から深く宗般老師をお慕いなされました。

そして寺の復興も一段落つき、後住も定めたので、なんと明治四十一 (一九〇八)年、四十三歳の時に再び修行に出かけたのでした。

そうして修行したのが円福寺の僧堂であります。

それから五十歳で龍沢寺の住職になるまで修行を続けられたのでありました。

白隠禅師の道場であった龍沢寺を復興して僧堂を開いて、更に松蔭寺、犬山の瑞泉寺、飯山の正受庵なども再興されたのでした。

八十二歳で妙心寺の管長に就任なされています。

九十六歳で御遷化になったのでした。

四国遍路というとこんな玄峰老師のご縁があります。

ともあれ、第二の人生のスタートにこの四国を歩いて廻ってこられたのには感服するばかりであります。

これからの活躍を期待しています。

 
横田南嶺

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