ゆったりと大らかに
帯津先生は、1936年埼玉県川越市のお生まれで、八十八歳でいらっしゃいます。
東京大学医学部を卒業され、東京大学医学部第三外科にお入りになり、更に都立駒込病院外科医長などをお勤めになっています。
1982年、埼玉県川越市に帯津三敬病院を設立されました。
そして2004年には、池袋に統合医学の拠点として、帯津三敬塾クリニックを開設されています。
日本ホリスティック医学協会名誉会長、日本ホメオパシー医学会理事長という先生でいらっしゃいます。
統合医療とか、ホリスティック医学という分野を開発されてきた先生であります。
昨年インターブックスという出版社から対談本の企画があって、何度か対談をさせてもらって、このたび『心とからだを磨く生き方』という本を作ってもらったのでした。
その対談の折に、帯津先生に夏期講座の講師をお願いしてみたところ、なんとこころよくお引き受けくださったのでした。
『心とからだを磨く生き方』という本は六月十一日の発売なので、まだ書店やインターネットでも買えない状況だったのですが、特別にこの日に合わせてお寺で販売してもらいました。
多くの方がお求めくださり感謝しています。
無事に夏期講座を終えることができたのですが、今回は思わぬ事態が生じました。
夏期講座の数日前に、帯津先生が体調を崩されているという知らせが入りました。
ご高齢なので、ご無理をしてもらうことのないように、頭の中で登壇してもらえないことも想定し始めていました。
しかし、だいじょうぶそうだと言うので、前日鎌倉のホテルでお目にかかりました。
お目にかかるととてもお元気そうでしたので安堵しました。
実際には話をうかがうと、熱を出して軽い肺炎の症状も出ていたというのですから、そんな軽いものではなかったのだと分りました。
発熱されてコロナ感染症の疑いもあるというので、PCR検査も受けられたそうです。
その時のお話も感動しました。
帯津先生はなんとしても六月二日に円覚寺に行くんだと強く願ってくださっていて、PCRで陽性になってはたいへんだと思われ、検査を受けて結果がでるまでの間お部屋で延命十句観音経を唱え続けていたというのであります。
大きな声で三十分ばかり唱えていたのだと仰ってくださいました。
観音様の祈りが通じた、延命十句観音経はやはり有り難いと仰ってくださいました。
そんな状況だと講演はだいじょうぶかと心配したのですが、その前の日も都内で二時間ほどの講義をなさってきたと仰るのでした。
とてもお元気そうにお見受けし、先生ご自身もやる気に満ちていらっしゃるのでお任せすることにしました。
帯津先生にとっては二度目の円覚寺なのですが、前回の時のご記憶はないようでした。
あの当時は、帯津先生はあちらこちらとてもご講演の多い時期だったと思います。
それに帯津先生はお忙しいので講演などに行っても、観光などはいっさいしないのだそうです。
おそらく時間の前に来て、講演だけしてそのままお帰りになったのだろうと思います。
今回は、なんと私の話から聞くと仰るのでした。
ご体調のことを考えると私の話も九十分もありますのでイスに座って聞くだけでもたいへんなことです。
先生の講演の前にお越しいただければ十分ですと何度も申し上げたのですが、先生はだいじょうぶだと仰って、やはり九時の私の講座から出てくださったのでした。
帯津先生のご講演も九十分、立ったまま、よく通るお声で見事なご講演でありました。
私は傍で拝見していましたのが、なんといっても姿勢の美しいのには感激しました。
腰がしっかり立って背筋がスッと伸びていらっしゃいます。
原稿も見ずに九十分の講演はさすがであります。
多くの方が感動しているのがよく分かりました。
姿勢の良さというのは対談の時からずっと感じていました。
前日の会食の折にもお酒もお召し上がっていらっしゃいましたが、イスの背もたれにもたれるということは一度もなかったのです。
居住まいを正して食事を召し上がっていました。
太極拳や気功、呼吸法を実践なされているので、自ずとよい姿勢になっているのだと思いました。
寺は階段が多いのですが、どんな石段でも手すりを使うこともなくスラスラとのぼりおりされていました。
体調の悪い時も診療やお仕事を一日もお休みになることはなかったそうです。
仕事をしながら、講演をしながら体を治してゆかれるというのです。
その日の私の講座は、信心銘の一節を講義していました。
その中に、
「大道は体寛かにして、易無く難無し
小見は狐疑す、転た急なれば転た遅し
之れを執すれば度を失して、必ず邪路に入る
之れを放てば自然にして、体に去住無し」
という言葉があります。
意訳しますと「真実の道、大道はそれ自体がゆったりと広々としていて、歩きやすいとか困難だとかいうことがない。
物の見方の狭い人は小さいことに気をかけて心配してしまい、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠ざかってしまう。
物にとらわれると尺度を失ってのめりこんでしまったりして、間違った路にはいりこむものだ。
手をはなせば、もともと自然で、道そのものは行くこともとまることもない、何をしていても道から離れることはない」
という教えです。
更に
「性に任せて道に合い、逍遥として悩を絶す
念を繋くれば真に乖き、昏沈して不好なり
不好なれば神を労す、何ぞ疎親を用いん
一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪むかれ」
と続きます、
こちらも意訳しますと、
本性のままに任せていればそれで大道と一致し、ゆったりとのんびり歩いて何の悩みもなくなってしまう。
心を何か一つの対象にくくりつけ、とらわれてしまうと真理に背いてしまう。
そうすると心が暗く沈みこんで思うようにゆかない。
思うようにゆかないとますます精神をすりへらしてしまう。
元来道に遠ざかったり、近づいたりする必要はない、道の中にあるのだ。
真実への一つの道を行こうと思えば、六官の対象を嫌うことはない」
というものです。
「大道は体寛かにして、易無く難無し
「真実の道、大道はそれ自体がゆったりと広々としていて、歩きやすいとか困難だとかいうことがない。」
「性に任せて道に合い、逍遥として悩を絶す」
「本性のままに任せていればそれで大道と一致し、ゆったりとのんびり歩いて何の悩みもなくなってしまう」
帯津先生にお目にかかっていると、こんな言葉が実にしっくりとします。
実に大らかでゆったりとしていて、それでいて真実の道にかなっていらっしゃいます。
お見送りするときに、私が「先生、今回は円覚寺に来たことを忘れないでください」と申し上げると、「今度は忘れないよ」といって、しっかり握手してくださいました。
帯津先生とのご縁に感謝します。
横田南嶺