御朱印二日目
二日目も初日と同様に五十数名の方にそれぞれ禅語を書いていました。
三十分前に会場に行くと、もう二十数名並んでいましたので、すぐに書き始めました。
いつもおなじみの方もいらっしゃれば、初めてお目にかかる方も多くございました。
こちらが初めてだと思っていても先方から、いつもYouTubeを見ていますと言われることが多く、先方からはよく見ている人なのだと思いました。
書きながら、ほんの少しの会話をしていました。
お天気の話題もいいのですが、やはり御朱印帳を預かりますので、その御朱印帳が、どちらで求めた御朱印帳なのかを聞いてみたりしていました。
また自分が書く前に、その前に書かれたところを一応確認しますので、どこどこに行かれたのですねと聞いてみたりしていました。
中には私の前に書いた御朱印が、平成のはじめ頃の日付のものもありました。
なにげなくお久しぶりなのですねと申し上げると、今まで子育てや仕事で、とてもお寺に参る余裕がなかったのだ、ようやく子どもが成長して、こうしてお寺に来れるようになったのですと仰っていました。
そうでしょうね、子どもを育てるのはたいへんですねなどと話をしながら書いていました。
他の方の御朱印の字を見ていると、急いで書いているなと分かるものもございます。
大きなお寺ですと大勢御朱印に並んだりしますので、急いで書くのもやむを得ないことだと思います。
私もかつてお手伝いをしていた頃には、そういう経験もございます。
そんなことを思えば、私の場合、ゆったりとした時間で、ひとつひとつ丁寧に書けるのでたすかりました。
なかには初日二回私の御朱印を求められて更に二日目にもお越しになった方もいらっしゃいました。
熱心な方であります。
三種類の禅語を用意していましたので、三つ目の禅語を書いてさしあげました。
「日日是好日」と「無事是れ貴人」と「至誠息むこと無し」の三種類だったのですが、「日日是好日」や「無事是れ貴人」が喜ばれることが多く、「至誠息むこと無し」は少なめになりました。
小さな御朱印帳の時などには字数が少ないからいいかと思って用意していたのでした。
三回目の御朱印の方には、「至誠息むこと無し」を書いたのでした。
こちらの解説文には、
「「至誠」とは、この上なく誠実なこと、まごころを表します。
中国の古典『孟子』には「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。
至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」と説かれています。
平易に訳してみますと「天地万物にあまねく貫いているのが誠であり、天の道である。
この誠に背かないようにつとめるのが人の道である。まごころをもって対すればどんなものでも動かせないということはない」となります。
まごころをもって接すれば、どんな人でも動かせる力があるということです。
ただし、その至誠、まごころは一時だけのものに終わってはなりません。
これも中国の古典『中庸』には「至誠無息(至誠息むこと無し)」の一句がございます。
この上ない誠実さ、まごころを持って生涯を貫くことです。『中庸』には「至誠息むこと無し」の後に「息(や)まざれば久し。久しければ徴(しるし)あり」と続きます。
「この上ない誠実さ、まごころを怠ることなく、あきらめずに保てば長く勤めることが出来る。長く勤めれば必ず目に見えるしるしが顕れる」という意味になります。
まごころを持って、倦(う)まず弛(たゆ)まずどこまでも貫いて、途中でやめることさえしなければ、必ず目に見える成果が現れる。どんな人でも、世の中でも変えてゆく事が出来るということです。
嘘偽りの多い中でも、頼りとすべきはまごころひとつ、お互いこのまごころを貫いてまいりたいと存じます。まごころをもってゆけば、必ず道は開かれると信じてまいりましょう。」
と書いておきました。
「至誠」については釈宗演老師が『禅海一瀾講話』(岩波文庫)の中で、
「この「誠」という字の換え言葉は、仏教にも儒教にもその他の教にもあるけれども、その色々の道徳、色々の善きことを約めて言うて仕舞ったものが「誠」という一字に外ならない。
この「誠」が直に親に対すれば「孝」となり、君に対すれば「忠」となり、朋友に交わっては「信」となる、色々に名が変って行くけれども、その実は「至誠」という、この一つである。
所がこの「至誠」というものは只だ人類のみがこれを私す可き様なものではない。
言わば大は天地よりして小は一微塵に至るまで、総ての物はこの「至誠」というものの現われに外ならない。
詰り「至誠」の凝結した所のものがかくの如く千差万別、各々その形を変え、姿を異にして、森々羅々と現われて居る。
この者は空間にあって何処までという限が無い。
この者は時間に於てもまた限が無い、無窮に通じ無辺に満ち充ちて居る所のものである。
先帝陛下〔明治天皇〕の御製に「目に見えぬ神にむかひて恥ぢざるは人の心の誠なりけり」〔「神祇」、明治40年〕というのがありますが、実にそれに外ならない。
「至誠」ある為に神人合一することが出来る。
この「至誠」ある為に仏と凡夫と親しく接触することが出来る。」
と解説されています。
ともあれ、そうして初めて試みた禅語朱印でありましたが、二日間で百名以上の方にお話ができて幸いでありました。
中にはご主人を亡くされてから、私の本やYouTube法話をささえにしているという方もいらっしゃいました。
それぞれいろんな思いを抱いてお寺にお参りしていらっしゃのだと思いました。
横田南嶺