心を調えるには
実際に坐禅をするのに、いろいろな方法が説かれていて、初心の者にはたすかります。
また長年修行していても参考になるものです。
最終日には、呼吸と心の調え方を講義していました。
呼吸について『天台小止観』には次のように説かれています。
大東出版社から出ている『天台小止観』にある関口真大先生の現代語訳を参照します。
「初めて坐禅に入るときに息を調える方法について述べよう。
呼吸にはおよそつぎのような四種類の相がある。
一に風、二に喘、三に気、四に息という。」
とあります。
四種類に分けて説かれています。
「このなか前の三種は調わない相で、後の一種だけがよく調った相である。」
というので、「風、喘、気」という三つはまだ十分調っていない状態なのです。
それぞれ次のように解説されています。
「ところで風といわれるのは、坐禅のとき、鼻のなかの息に出入の音があるのが、それである。
喘の相とは、坐禅のとき、呼吸に音はしないけれども、しかも息の出入に結滞があってなめらかでないのを喘という。
気の相とは、坐禅のとき、音もなく、また結滞もないけれども、しかも出入がなめらかでないのを、気という。
息の相といわれるのは、声もなく、結滞もなく、粗くもなく、出入が綿々として、息をしているのかしていないのかわからないようになり、身を資けて安穏に、よい気持ちになる。
これが息である。」
という四つなのであります。
「風といわれる状態でいると気が散る。
喘といわれる状態の呼吸をつづけていると心にもむすぼれができやすい。
気といわれる状態の呼吸をつづけていると、やがて疲れがでる。
息といわれる状態の呼吸をつづけていれば、心がおちついてやがて定まってくる。
つまり風・喘・気の三種の相があるときは、これを調わない呼吸といい、坐禅にはまた患のもとともなる。心も定まりにくい。」
と説かれています。
そこでどうしたら調うのかというと、
「もしこれらを調えようとするなら、まさにつぎのような三種の方法を試みるがよい。
一には、精神を体の下のほうにおちつけて、そこに精神を集結する。
第二には、身体を寛放してみる。
第三には、気があまねく全身の毛孔から出入していて、それを障礙るものがないと観想することである。
もしその心を静かにしていれば息も微微然となり、息が調えば、患は生じないし、その心も定まりやすい。
これをわれわれが初めに坐禅をするときに息を調える方法とする。」
と丁寧に書いてくださっています。
それから次には心を調えることです。
これは
「初めに坐禅をするときに心を調えるということには、およそ二つの意味がある。
一には、乱れがちな心をおさえて、外の余分なことにむかってかけだしたりしないようにすること、二には、まさに沈・浮・寛・急をほどよく所を得させることである。」
と書かれていて、自分の心が「沈・浮・寛・急」のどの状態になるのかを観察して、それぞれに応じて調えてゆくのであります。
まず「沈といわれる状況は、坐禅をしていて、心がうす暗く、記憶もはっきりせず、頭がどうしても低く垂れがちになることがある。
これを沈という。
そういうときは、精神を鼻の頭に集中し、心をつねに一つのことのなかに集注して分散させないようにする。これが沈を治す方法である。」
と書かれています。
気持ちが沈むような時には、心を上の方に向けるのです。
私などは、少し目もはっきりと開けて坐るように心がけています。
また坐布というお尻のところを少し高めにするということも気をつけたりしています。
気持ちが沈む時というのもあるものです。
それから次は
「浮というのは、坐禅をしていて心が好んでゆれ動き、体もまた落付かないで、ついほかのことを考えたりしてしまうことである。
これを浮という。
そういうときには、心を下方に向けておちつけ、精神を臍に集注し、乱れがちな心を制するようにする。
心が定まっておちつけば、心は安静になる。
要点をあげてこれをいえば、沈ならず浮ならず、これ心が調った様子である。」
ということです。
心が落ち着かないような時には、へそ下の方に意識を向けるのです。
それから、「急」というのは、「坐禅のときには坐禅のなかに心のはたらきの全体をあつめて、それによって禅定に入ろうと努力することに原因する。
それ故に気が上方に向かいがちで、胸憶が急に痛むようなことがある」というのです。
「そんなときには、一度その心をとき放した上に、気はみな流れ下ると想うがよい。
それだけで思いは自然になおる。」
と説かれています。
それから「心が寛である相とは、心志がだらけ、体が斜めにのめり込むような気持ちがしたり、あるいは口から涎が流れたり、あるときは心が暗くなったりする。」
時であります。
だらけるとか、心がゆるんでしまうときです。
「そのようなときにはまさに姿勢をきちんとしなおし心をひきしめ、心を一つのものごとのなかに集注し、身体をしやんとする。 それで治る。」
と説かれています。
白隠禅師なども「心火逆上してのぼせあがり、肺が衰え、両脚は氷雪の中に漬けたように冷え切」る状態になっていたので、気を下に流すために、内観の法や軟酥の法を用いたのだと思うのであります。
よく心を調えておいて、それから臨済禅の場合は、公案の修行に入ってゆくのであります。
横田南嶺