墓守にすぎず
先日は、冷たい雨の降る中、ブラウン大学のジャニーン・サワダ先生がお越しくださりお目にかかりました。
これは、駒澤大学の小川隆先生の御依頼でありました。
その日はディディエ・ダヴァン先生もお見えくださいました。
ジャニーン先生は、今北洪川老師の『禅海一瀾』についてご研究なさっていて英訳に取り組んでおられるとのことでした。
宗務本所にお越しいただいて、茶礼をして、その後舎利殿、開山堂、そして今北洪川老師のお墓にお参りしてもらいました。
その後一撃亭という建物で、洪川老師の油絵の肖像をご覧いただいたのでした。
当代第一流の学者の先生方とお話するのは楽しいひとときでした。
午後1時に見えて、お見送りするともう4時になっていました。
岩波文庫から『禅海一瀾講話』を発行したのは、二〇一八年の一〇月のことでした。
もう六年も前のことになります。
釈宗演老師の百年諱を迎えるにあたり、記念に出版したものでした。
岩波文庫ですが、全七三二ページの大冊であります。
『禅海一瀾』は、今北洪川老師が岩国の永興寺に居られた頃に書かれた漢文の書籍です。
それをお弟子の釈宗演老師が講義されて大正七年に発行されたのが、『禅海一瀾講話』です。
誤字や誤植も多かったのですが、小川隆先生が綿密に考証し校注してくださって、発行したのが岩波文庫本なのです。
その折には、円覚寺の師家に代々伝わる洪川老師の手沢本を参考にしてもらったのでした。
ジャニーン先生も熱心に洪川老師のことを研究してくださっているようで、あれこれと質問をいただきました。
また先生は、東慶寺の井上禅定和尚にも懇意にしてもらっていたそうで、話に花が咲きました。
はじめの茶礼だけでも一時間が過ぎていました。
その後雨の中でしたが、舎利殿や開山堂、そして洪川老師のお墓にお参りしてもらいました。
晴れもよろしいのですが、雨の円覚寺もまた風情のあるものです。
まず人が少ないので静寂であります。
降りしきる雨の中に凛然と立っている舎利殿は、いつ見ても素晴らしいものです。
洪川老師のお墓は、舎利殿の横にあります。
岩をくりぬいた洞窟の中にたたずんでいます。
そして宿龍殿にもご案内しました。
円覚寺の建物のほとんどは関東大震災で倒壊していまい、その後の再建なのですが、円覚寺僧堂の宿龍殿は、震災でも残ったのでした。
ですから今の宿龍殿は、洪川老師が提唱なされていた建物であります。
そこに若き日の宗演老師も拝聴なさっていましたし、鈴木大拙先生もまたその講筵に連なっていたのでした。
それから一撃亭でお抹茶を振る舞いました。
洪川老師の油絵の肖像画がありますので、それを出して見てもらいました。
この油絵は、小川先生も初めてだったようで、驚かれていました。
碩学の先生方のあれこれの話を承っていました。
話のなかでブライス先生のことが話題になりました。
ブライス先生とはどんな人なのか、上田邦義先生からいただいていた『ブライズ先生、ありがとう』(三五館)には次のように書かれています。
「ブライズは一八九八年一二月三日ロンドン近郊に生まれた。
高校を出てまもなく第一次世界大戦が始まった。一九一四年である。
戦中の約二年間は、良心的徴兵忌避者 (CO)としてロンドンの刑務所で労役に服した。
イギリス人男子としては兵役に服する義務があったが、ブライズは、 それを拒否したのだ。
『平和の海と戦いの海』(平川祐弘著、講談社)には、このようにある。
「ブライスさんは第一次世界大戦の最中、イギリスで徴兵を忌避するという思い切った行為を敢てしたのである。
当時はイギリス政府筋でも徴兵拒否者は銃殺刑に処するという脅しを出したくらいであったから、これは覚悟のいる反社会的行為であった」
というのであります。
この文章だけでもブライス先生の人となりをしることができます。
更に「そうして二年間、ロンドンのワームウッド・スクラブス刑務所で肉体労働に従事した。
かなりひどい肉体的・精神的苦痛を味わわされたようであるが、ブライズ先生からそれについてお聞きしたことは一度もない。
人間を殺すことに反対だっただけでなく、いっさいの肉食を絶ち、その頃から徹底した菜食主義者(vegetarian) となった。」という方なのだそうです。
二五歳から四〇歳まで京城帝国大学に英語教師として赴任していて、その頃に鈴木大拙先生の禅に関する著作に感動し、京城妙心寺別院の華山大義老師について参禅なさっていたのでした。
ダヴァン先生は『帰化した禅の聖典『無門関』の出世双六』という著作もある先生で『無門関』について造詣も深いのです。
私がいま一番参考にしている『無門関』の木板本などをご覧いただきながら、あれこれと話をするうちに、ブライス先生の英訳『MUMONKN』の話題になりました。
小川先生には、このブライス『無門関』の抄訳があるとのことで、あとでご教示いただきました。
『無門関』の著者である無門慧開の伝記も簡潔にまとめられていました。
一部を引用しますと、
「無門[無門慧開]が生まれたのは、 宋朝 (960年-1279年) の滅亡に近い、1182年 [淳熙9年] のことであった。
彼は万寿寺において、楊岐派第7代の祖師月林 [月林師観] に参じ、 峻厳な宗風で知られたこの月林から「無」字の公案を授けられた。
六年ののち、なおもその問題を解決し得ていなかった無門は、「無」 字を透過するまでは眠らぬと誓いを立て、眠くなれば廊下に出、頭を柱に打ちつけたという。 それがある日、午飯の時を告げる太鼓が打ち鳴らされたその刹那、突如悟りが開け、彼は次の偈を詠んだのであった。」
と書かれています。
そのあと偈の漢文が掲げられて、そのあとに、ブライス先生の英訳を小川先生が日本語訳されたものがございます。
青天白日一声雷 青空のはて 輝く太陽 雷の一撃!
大地群生眼豁開 大地の上の生きとし生けるものがみな眼を見開く
万象森羅斉稽首 自然界の無数の事物がこぞって敬礼をなし
須弥ボツ〔足+孛〕跳舞三臺 シュメール山が地から離れてポルカを踊る」
というものです。
「ポルカを踊る」と訳されたところがお見事だと思ったのでした。
ブライス先生は昭和三十九年十月二十八日にお亡くなりになっていて、お墓は東慶寺にございます。
戒名は不来子古道照心居士、円覚寺の僧堂では毎月月命日の二十八日に戒名をよんで回向しているのです。
先生方は、円覚寺にお参りしてよかったと言ってくださいましたが、こちらは一流の学者のお話を傍で拝聴するだけで至福のひとときでありました。
私などは、単に祖師のお墓を守って暮らしている墓守に過ぎず、ただ堂塔伽藍を守っているのみなのだとしみじみ思ったのでした。
横田南嶺