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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.02.02
今日の言葉

禅は黙に宜し

先代の管長足立大進老師は、よく「宜黙」という言葉をお書きになっていました。

または「黙」の一字を大きく書いて、その傍に「説了也」と書いていらっしゃいました。

「宜黙」は「黙に宜し」と読みます。

禅は黙っているのがよいという意味であります。

これは雲門禅師にまつわる言葉であります。

雲門禅師は、西暦八六四年のお生まれで、九四九年にお亡くなりになっています。

八十五年のご生涯であります。

ちょうど臨済禅師がお亡くなりになった頃にお生まれになった方であります。

『碧巌録』の第六則の評唱に、その御修行ぶりが書かれています。

はじめは睦州禅師に参禅されました。

その睦州禅師は生没年不詳ですが、黄檗禅師のお弟子であります。

かの臨済禅師が、黄檗禅師のもとで修行していたときの首座でありました。

この方について雲門禅師は修行をしていました。

睦州禅師の指導はとても厳しいものでありました。

修行に来た者がいると、その門を跨ぐとすぐに修行僧をつかまえて、「言え、言え」と言って迫ったのでした。

修行僧が何も答えられないと、押し出して、「この役立たず」と言いました。

役立たずというのは、「秦時のたく轢鑽」という言葉です。

これはかの秦の始皇帝が阿房宮を作らせた時に使ったという巨大なドリルのことです。

それで、これはそれ以外の時に何の役にも立たないところから、無用の長物を意味するのです。

厳しい指導ぶりであった睦州禅師のところに雲門禅師も修行に行きました。

三度目で、門を敲くと睦州禅師は「誰だ」と言います。

雲門禅師は「文偃です」と答えます。

門が開くと、すぐさま飛び込みました。

睦州禅師は雲門禅師をつかまえて、いつものように「言え、言え」と迫りました。

雲門禅師がためらうと、門外に押し出されてしまいます。

まだ雲門禅師の片足が敷居に残っていたのに、睦州禅師は急に門を閉じられたので、足をへし折られてしまったというのであります。

雲門禅師は痛みをこらえて声をあげたとき、はっと悟ったのでした。

今の時代にはとても通用することではありませんが、こういう厳しい指導のもとに悟りを開くことができたのであります。

睦州禅師は後に雲門禅師を雪峰禅師の所へ行かせました。

雪峰禅師の所へ着くと、雲門禅師はみんなの中から前へ進み出て、「仏とはどのようなものですか」と問いました。

すると雪峰禅師は「寝言を言うな」と言いました。

原文では「寐語すること莫れ」であります。

そこで雲門禅師は礼拝しました。

そのまま雲門禅師は雪峰禅師のもとに三年とどまって修行しました。

雪峰禅師がある日雲門禅師に問いました、

「あなたの見地はどうか」と。

雲門禅師は答えました、

「私の見地はこれまでの祖師達と僅かばかりも相違しません」というのであります。

その後雲門禅師は霊樹如敏禅師のもとで首座を務めていました。

やがてこの霊樹院の住職となります。

更に後になって雲門山の住持となったのでした。

あるとき、広州の節度使であった劉王が雲門禅師を宮殿内に招いて、一夏の間安居を過ごさせました。

数人の長老達とともに、挨拶を受けて説法されたりしていました。

しかし、雲門禅師は何も言わずにまた誰も近づく者もいなかったのでした。

ところが、ある役人はこんな偈を書いて貼りだしたのでした。

大智の修行、始めて是れ禅、

禅門は黙に宜しく喧に宜しからず。

万般の巧説、争か実に如かん。

雲門の総に言わざるに輸却す。

という偈であります。

意味は、

大いなる智慧をもって修行してこそはじめて禅といえよう。

禅門では黙っているのが宜しく、喧しくしゃべるのはふさわしくない。

たくさんの言葉で巧みに語っても真実には及ばない。

雲門が何も言わないのには負けてしまった。

ということであります。

こんな実直な黙々とした修行に励んだ雲門禅師は、後に見事な言葉をたくさん残されたのでした。

一番よく知られているのはなんといっても「日々是れ好日」の一句でありましょう。

門下からは、洞山守初、智門師寛、徳山縁密、香林澄遠などのすぐれた禅僧を打ち出しました。

香林禅師は十八年間もの間侍者を勤めていました。

雲門禅師はいつも「遠侍者」と名前を呼ぶだけで、澄遠禅師が「はい」と答えると、雲門禅師はは「これなんぞ」と問いました。

かくして十八年、ある日やっと香林禅師は悟りました。

雲門禅師は「私はこれからは決してお前の名を呼ばぬ」と言ったという指導ぶりなのであります。

洞山禅師が悟りを開いた話は『無門関』にも取り上げられています。

「洞山三頓」という公案であります。

この話は『碧巌録』の第十二則の評唱に詳しく書かれています。

末木文美士先生の『現代語訳 碧巌録 上』(岩波書店)から引用します。

「洞山が雲門に入門した当初、雲門が問うた、

「何処から来たのか」。

洞山「渣渡からです」。

雲門「夏安居には何処に居たのか」。

洞山 「湖南の報慈寺です」。

雲門「いつそこを去ったのか」。

洞山「八月二十五日です」。

雲門「そなたに三回の棒打ちを許してやる。 僧堂に行きなさい」。

(洞山)禅師は、夕方、室内に入ると、近づいて問うた、「私の過失は何処にあるのですか」。

雲門「ごくつぶしめ。江西でも湖南でも、そうしておったのか」。

洞山は、そう言われるや、パッと大悟し、そこで言った、

「私は将来、人家の無い所に草庵を建て、一粒の米も蓄えず、一本の野菜も植えず、あちこちに往来する禅僧を常に接待して、悉く彼のために釘を抜き、楔を抜き、アカだらけの帽子を取り去り、汗臭い肌着を脱がしてやり、それぞれサッパリと、無為自然の人にしてやります」。

雲門「からだは椰子の実ほどなのに、こんな大きなことを言いおって」。洞山は、そこで別れを告げた。」

という話であります。

黙々と修行した雲門禅師ならでは、こうして見事に言葉を用いて修行僧を導いて勝れた禅僧を育てたのでありました。

 
横田南嶺

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