はじめての人におくる般若心経
二十四節気では大寒にあたります。
大寒は、一年のうちでも最も寒い時期であります。
寒さの厳しい時期に、武道などでも寒稽古というのが行われたりします。
仏教では、宗派によって寒修行というのもあるようです。
われわれ禅宗では、寒修行という言い方はしませんが、円覚寺の修行道場では、本日から一週間の摂心を行うのであります。
毎年、もっとも寒い時期に一週間坐禅の修行をしているのであります。
本日はその初日でもあります。
それから、本日は、春秋社から新しく出版される『はじめての人におくる般若心経』の発行日でもあります。
一昨年二〇二二年の四月から十二月まで毎月花園大学で学生さんたちに般若心経の講義をしたものを一冊の本にまとめたものです。
昨年ほぼ一年かけて、書籍にしました。
今の時代は、長い時間と苦労をかけて本を作っても、あまり売れることがないので、複雑な思いがするのですが、それでも感慨深いものであります。
本のオビは、大きく「ゆるされて生きる」と書かれていて、そのあとに、
少し小さく「禅僧が若者に語った空のこころ」と書かれていて、
更に小さい字で、
「仏教一千年の歴史を湛える276文字を説き明かし、この世の中をしなやかに生きるための究極の智慧を伝える、珠玉の講義録」
と書いてくれています。
こういうオビの文章は、出版社が書いてくれたものです。
オビの裏の方には、
「この社会にあるさまざまな苦しみや現象をすべて取り除いて、空になるのではありません。そのようななかにありながら、引っかかることなく、とらわれることなく、さらりさらりと生きていきたいというのが理想です。そのようなことを、般若心経から学びたいのです。」
という本文にある言葉を書いてくれています。
これは本書の第五章の終わりにある言葉です。
この言葉の前には、
「所有(わがもの)というものなくとも、われらこころたのしく住まんかな。
光音とよぶ天人のごとく喜悦(よろこび)を食物(かて)とするものとならんかな。」 (友松圓諦『法句経』講談社学術文庫)
という『法句経』の言葉を引用して、次のように書いています。
「禅の教えでは、禅の喜びや、坐禅をすることの喜び、これが自分の食べ物、糧となっていくのです。
ですから、何もないところからあふれてくる豊かな喜びというのでしょうか、このようなものが、般若心経から学べるところです。
物を集めて増やそうという発想からは、一八〇度の転換です。
物を集めよう、増やそうということは、もう限界ではないでしょうか。
資本主義的な大量生産、大量消費というような洗脳からは、いいかげんに離れないと、地球環境も破壊されるばかりではなかろうかという気がいたします。
さて、こうした「心に罣礙なし」ということを、京都女子大学の基となるものをつくられた甲斐和里子先生は、このような歌で表現されています。
岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる
別段、岩や木の根っこを全部取り除くわけではないのです。
この社会にあるさまざまな苦しみや現象をすべて取り除いて、空になるのではありません。」となっているのです。
この本のまえがきに、二〇二二年に花園大学で般若心経を講義しようと思い立っていきさつを書いています。
「般若心経を解説してほしいと頼まれたことは何度かありました。
しかし、今までは丁重にお断りしていました。
般若心経の解説は難しいものです。
理論的に解説するのも難しいですが、仮に解説しても、それを理解したからといって、般若心経が分かったとは言えないからであります。
般若というのは智慧のことですが、これは分別の知恵ではなく、無分別の智慧です。
あれこれと説明して解釈してしまうと、それは分別の知恵になってしまうのです。
無分別の智慧は、理論的な解釈では届かないのであります。
そこで、般若心経の解説を頼まれてもお断りしていたのでした。
学生時代に般若経典を勉強していましたが、勉強すればするほど般若の智慧から遠ざかってしまうというもどかしさを、ずっと味わっていました。
それだけに、解説は難しいと思っていたのでした。
ところが、そんな気持ちを一変させることがありました。
二〇二一年に「親ガチャ」という言葉が、ユーキャンの新語・流行語大賞のトップテンに選出されたのでした。
「親ガチャ」という言葉を、私はそれまで知りませんでした。
意味は、生まれてくる子は親を選べないということで、それを「ガチャ」というゲームの仕組みに喩えたそうなのです。
生まれる際に親や家庭環境を選べないというのは事実ですが、これは、良い環境でないとき、ハズレだという場合に使われることが多いと聞きました。
思い通りにゆかない原因を「ガチャ」に外れたと、なんとも言えないあきらめを表しているようなのです。
こんな言葉が流行していることを知って、私の心に火がつきました。
「よし、般若心経を講義してみよう。今こそ空の心を説いてみよう」と思ったのでした。」
と書いています。
更に「お釈迦様は「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(スッタニパータ・一四二)」と説かれています。
変化することのない、固定した自己などはないと説かれたのです。
この、変化しないものはない、固定した実体などはないというのが、空の原義であります。
仏教では、自己というのは、諸々の構成要素によって仮に現れた幻影のようなものにすぎないと説かれます。
裏を返せば、条件によってはいかようにも変化し得るのです。
お釈迦様は、「この世の中には四種類の人々がある。闇より闇に赴く人々。闇より光に赴く人たち、光より闇に赴く人たち、および光より光に赴くものがそれである」とも説かれました。
自分の思うはずではなかったというような境遇にあっても、条件が変わることによって、闇から光へと変わることもできるのです。
一見して劣悪な環境、境遇だと思われているなかに生まれながらも、立派な高僧になった方はたくさんいらっしゃいます。
空なればこそ、いかようにも変化してゆけるのです。」
ということを書いています。
「空なればこそ、いかようにも変化してゆける」、このことをお若い方々に伝えてあげたいと思ったのであります。
またまえがきに「花園大学は、もともとは臨済禅を学ぶための学校ですが、今や文学や歴史、福祉など、いろいろな分野を学ぶ方も多いのです。
この講義も仏教学専門の学生を対象にしたものではなく、一般学生を対象にしたものです。
ですからなるだけ分かりやすいようにと心がけて講義をしました。
『はじめての人におくる般若心経』というタイトルにした由縁であります。」と書いています。
今の若者に語ってみた『般若心経』なのであります。
本書の内容については、来月二月の第二日曜日の日曜説教でお話しようと思っています。
横田南嶺