無常ということ
修行道場では、三が日は、朝大般若経の祈祷を行いますが、そのあとはゆっくり過ごしていいことになっています。
四日から、三が日で祈祷した大般若札を持って、信者さんのお宅に年始の挨拶に回ります。
年末に、サンガ新社から三冊の本を送っていただきました。
アルボムッレ・スマナサーラ長老の『無常の見方』『苦の見方』『無我の見方』の三冊であります。
どれもかつてサンガ社から出版されていたものでした。
残念ながらサンガ社が倒産してしまって、これらの本は入手困難となっていたのでした。
それがこの度、多くの方々のお力によって、サンガ新社から発行されることとなったのであります。
無常と苦と無我という三つの真理を「三相」という言い方をします。
この三つの真理は苦しみから遠ざかる為に明らかにするべき大切なものなのです。
無常というと、小林秀雄さんに「無常という事」という文章があります。
そのはじめに、『一言芳談』にある話があります。
ある女性が偽って巫女のいでたちをして、太鼓を打ちながら、澄んだ声で「とてもかくても候、なうなう」と謡っていたというのです。
「どうでもいいことでございます、ねえねえ」という意味です。
それはどういうことかというと、「生死無常の有様を思ふに、この世のことはとてもかくても候、なう後世を助け給へ。」ということです。
「生死無常のありさまを思えば、この世のことはどうでもよい、ただ後の世のことをお助け下さい」という意味であります。
小林秀雄さんは、
「現代人は、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。」
と書かれています。
「無常」について『広辞苑』には、
①〔仏〕一切の物は生滅・変化して常住でないこと。
②人生のはかないこと。
③人の死去。」
という意味が書かれています。
『一言芳談』にある女性が無常というのは、この「人生のはかないこと」を言っているのではないかと察します。
『広辞苑』には、「生死無常」という言葉もあって、「人の生死の無常であること。人生のはかないこと。」と解説されています。
栄耀栄華を誇った平家も滅亡してしまいます。
平安時代から鎌倉時代にかけて、戦も続いたのでした。
人の命も実にはかなく消えていったのであります。
大切なわが子を失ってしまうような経験もしたのかもしれません。
現代においても震災や、大きな自然災害を目の当たりにすると無常を感じます。
あれほど元気だった人が病気で急に亡くなったりすると、これも無常を感じます。
大きな会社で安全だと思っていたのが、倒産してしまったりすると、これも無常を感じるのであります。
しかし、仏教で説く無常はそのように単にはかないことをいうのではありません。
無常だからといって、人生をあきらめてなげやりになるのではありません。
岩波書店の『仏教辞典』には、「無常」は、
「常(つね)でないこと、永続性をもたないこと。
常住(じょうじゅう)の対。
苦(く)、無我とならんで、仏教の伝統的な現実認識を示す。
ひとの生存をふくめ、この世でわれわれが目にするすべては移ろいゆくものであり、一瞬たりとも留まることがないということ。
この無常説は後に、すべての存在するものは刹那(せつな)に滅するものであるという刹那滅論を生むことになる。」
と解説されています。
刹那とは
「きわめて短い時間。瞬間。最も短い時間の単位。
その長さについては、指を1回弾く(一弾指(だんし))あいだに65刹那あるという説や、75分の1秒に相当するとする説など多くの異説がある。
また須臾(しゅゆ)と同一視されることもある。
この世の存在物は、実体を伴ってあるようにみえるが、実際には、1刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないことを<刹那生滅>あるいは<刹那無常>という」のであります。
刹那は一秒の七十五分の一というのですから、一秒の間に七十五回も生滅をくりかえして変化しているのであります。
今われわれが目にしているこの机やイスも、本当は今も変化しているのです。
しかしその変化はわれわれの目には見えません。
よくお寺で話をするときに畳を例にすることがあります。
畳もはじめは青い畳でした。
それがだんだん茶色になって、擦り切れてゆきます。
何十年も経てばボロボロになるのです。
しかし、これはある日ある朝、突然色が変わるとか、ボロボロになるのではないのです。
毎日毎日変化しながら、何十年も経つと、すっかり変わったように見えるのです。
厳密に言えば、一秒ずつ変化しているのです。
一秒の間にも七十五回も変化しているのです。
ただ、その変化が小さいから、われわれの目には同じようにしか見えないのです。
お互いの身体もそうです。
元気で、病気もしたことのない健康自慢の人が弱ることがあります。
そのような人は、自分はずっと元気だと思い込んでいることが多いようです。
過信してしまうと、変化には気がつきません。
「自分の身体というものは、無常であり、弱いものだ。いつ何が起こるか分からない。毎日毎日変化していくのだ」と思っている人は、気を付けながら暮らします。
そうすると、結果的に長生きする場合があります。
スマナサーラ長老の『無常の見方』のオビには、
「ブッダが説く「無常」は、「花が散って寂しい」「親しい人が死んで悲しい」といった感情的なものではありません。
「無常」とは、物質も生命の心も、万物は瞬時に変化するという普遍的で客観的な事実です。
一切の現象は一時的に成立しているにすぎません。
そして、無常に基づいて生きるなら、明るく、元気でいられます。
無常は、人生そのものを引っくり返して、苦しみを完全になくして、解脱、覚りを体験させる真理なのです。」
と書かれています。
本書を開いてみると、こんな言葉もありました。
「「無常だから努力は無駄だ。 実らない」ということはありません。努力という働きかけは一つの原因になるので、当然それによる変化は起こるのです。
無常だからこそ、我々の努力は実るのです。
無常でなければ、変化しない世界ならば、努力は実らないのです。」
と書かれています。
そのあと更に、
「無常を理解することによって、我々には成長する、向上する無数の道が現れてきます。
無常のおかげで人は成長するのです。
無常だから能力の開発が可能なのです。 勉強することも、研究することも、それによって知識を増やすこともできるのです。
それに無常だから文化の発達が可能なのです。
映画・音楽などの芸術を作ることも、それらを鑑賞して喜ぶこともできるのです。」
と説かれています。
まさしくその通りなのであります。
変化することを嫌う方もいますが、変わっていくことは楽しいものです。
特に努力することによって、変化していくことを楽しむことができるのです。
だからこそ、お釈迦様は苦しみから脱する道をお説きになったのです。
新しい年を迎えてスマナサーラ長老の三冊の本を読み返してみたいと思っています。
横田南嶺