見る者は何か?聞く者は何か?
石門心学の祖と言われていて、江戸時代の日本の思想には大きな影響を与えた方であります。
梅岩の『都鄙問答』には次の言葉があります。
中公文庫の『都鄙問答』にある、加藤周一先生の訳を参照します。
学者が聞きました。
「商人は欲深く、いつも貪ることを仕事としている。その商人に無欲を教えるのは、猫に鰹の番をさせるのと同じことでしょう。
商人に学問を勧めるのはつじつまの合わないことです。そのできないことを知りながら、商人に教えているあなたは悪者ではないですか。」
それに対して梅岩先生が答えています。
「道を知らない商人は、ただ貪ろうとして家を滅します。
商人の道を知れば、欲を離れ仁を心がけて努力するから、正しい道にかない、栄えることができます。それが学問の功徳である。」
というものであります。
石田梅岩は、禅にも深く参じています。
梅岩の禅の修行について、清水正博先生の『先哲・石田梅岩の世界』からいくつかの言葉を紹介します。
引用させてもらいます。
第7番に「自性とは何かを正そうと師を求める」という一章があります。
清水先生の意訳を参照します。
「先生は三十五~六歳の頃までは、自性とは何かについて知っていると思っていましたが、いつしかそれを疑問に思いはじめました。
そのことを正そうと、あちこちに師を求めましたが、どこにも見つからず、年月が経ちました。そして了雲老師に出会いました。」
というのであります。
自性とは何かを求めて禅の老師に出合ったというのです。
「自性」というと、『広辞苑』には、
「①物それ自体の本性。本来の性質。
②サーンキヤ派にいう現象世界を展開する物質的原理。プラクリティ。」
と解説されていますが、
『禅学大辞典』には、
「禅門では、諸煩悩を離れた衆生の心の本性の意に用いる」と解説されています。
お互いの心の本性のことであります。
この了雲老師との出会いについて、清水先生は、
「梅岩先生は独学を貫いてきましたが、三十代中頃、何か思うところがあったのでしょう。
京都中を探して隠遁の聖者ともいうべき師・了雲に巡り合います。
了雲の父は越前藩の要職にありましたが、故あって京都に隠棲。 そこで了雲は生まれ、黄檗宗の禅僧に学んだと伝えられています。」
と解説してくださっています。
黄檗宗は、臨済宗と同じなのですが、明の黄檗山万福寺の隠元禅師が1654年(承応3)に来日して伝えた教えであります。
京都宇治に黄檗山万福寺を建立して弘めたのが黄檗宗であります。
了雲老師のもとで坐禅修行に励んで、ある時にひとつの体験をしました。
そのことが『先哲・石田梅岩の世界』には次のように書かれています。
第9番、「小悟を得る」という一節です。
まず清水先生の意訳では、
「その後、日夜集中し、いかがいかがと心を込めて苦心を重ね、一年半を過ぎた頃、母の看病のため生家に戻っていました。
先生は四十歳になったばかりで正月上旬のこと、用事があって扉を出たときに、突然にかねてよりの疑問が解け、「中国の聖人である尭舜の行った道は孝弟につきる。鵜は水の中をくぐり、鳥は空を飛ぶ。
天の道というものは、上下に明確なもので、自性は天地万物の親である」と知り、大きな悦びを得ました。」
と書かれています。
第11番には「自性見識の見を離れる」とあって、
「先生はそれからまた昼夜、寝食を忘れ日々修養すること一年程経って、ある晩、夜更けに大変疲れていたので寝入ってしまわれました。
夜が明けたのも気付かずにいましたが、雀のなく声が聞こえました。
そのとき腹の中は大海原が静かで波も無く、また青空のように感じました。その雀の声は、静かな大海に鵜が水に分け入るように思え、そこで自性を知ることの目を離れました。」
という体験をなされたのでした。
更に修行は続きます。
第18番に「悟後の修行」という章があります。
清水先生の訳には、
「梅岩先生が了雲師の看病の際、師がたばこを吸いたいと望まれ、先生がたばこに火を点け、煙管の吸い口を懐紙にてぬぐい差し出したところ、師の心に適わず、「お前がこのようなことをするとは、私の看病をとても汚いことだと思っているだろう」と、すぐに出て行くように命じました。
先生は力を落とし、別室に退いて涙を流しました。翌日、了雲門下の先輩が来て先生の行いを謝り、師はやっと許し、先生は再び看病されました。」
となっています。
厳しい修行を続けていたことがよく分かります。
清水先生は、この一章の解説で、ただいま南禅寺の管長をなさっている田中寛洲老師の言葉を紹介してくださっています。
「田中寛洲老師は「吸い口をぬぐった先生の所作に、なお善悪美醜などという分別心が残っているのを鋭く了雲は看て取ったがために、梅岩を厳しく叱責した」と述べています。」
という事であります。
こういう問答を拝見すると、老師は病に伏せていても、修行僧達を指導するのには、これほどの慈悲心をもってなされているのだとよく分かります。
第49番に「行住坐臥の主は何者か」という一章があります。
そこには、「いまここで見たり聞いたりする上での主人は誰ですか。
行くものは何者か、住むものは何者か、座るものは何者か、寝るものは何者かと、急ぎ眼をつけて見る。
このように、油断なく、何年もかけて徳を積みます。
ついには見聞、覚知、行住坐臥をなす主人を見つけることができます。
これが自分の性です。
自分の性を掴むことができれば、どんな行動をとっても、あるべき道と自分とが一体となります。」
と書かれています。
こういう工夫をずっと続けていたことがわかります。
その主といっても何か塊のようなものがあるのでは決してありません。
古人は、
心とは如何なるものと思いしに目には見られず天地一杯
と詠っています。
天地いっぱいに満ちて生き通しに生きてはたらいているのであります。
横田南嶺