魔とは?
よく魔が差すという言葉を使ったりします。
「魔が差す」とは『広辞苑』には、
「悪魔が心に入りこんだように、ふとふだんでは考えられないような悪念を起こす」ことと解説されています。
魔とは、『広辞苑』には、
「① (梵語māra)〔仏〕修行や人の善事の妨害をなすもの。魔羅。また、不思議な力をもち、悪事をなすもの。」
「好事魔多し」や「四魔」という関連語があります。
「② 不思議な力。神秘的なもの。恐るべきもの。
③熱中して異常な行いをする者。」
「電話魔」というような場合です。
悪魔というと、
「①〔仏〕仏道を妨げる悪神の総称。魔羅。
②〔宗〕悪および不義を体現し、神への反逆をそそのかす存在。キリスト教では、神に逆らった天使が敵対者として悪魔になったとする。
③残酷・非道な人のたとえ。」
と解説されています。
「好事魔多し」とは、
「よいこと、うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすいものである。」という意味です。
四魔は四つの魔と書きますが、『広辞苑』には、
「〔仏〕衆生を悩ます四種の魔。
貪欲・瞋恚・愚痴などの煩悩が煩悩魔、
五蘊の和合から成る肉体が陰魔、
人の寿命を奪う死が死魔、
欲界の第六天の魔王が人間の心身を乱すのが他化自在天魔。」
と解説されています。
道元禅師の『正法眼蔵随聞記』には、この魔についての記述があります。
講談社学術文庫の『正法眼蔵随聞記』にある山崎正一先生の現代語訳を参照します。
「ある日、教え示していわれた。
『続高僧伝』の中にある話だが、ある禅師の門下に、一人の僧があった。彼は金造の仏像と仏舎利(釈尊の遺骨)とを有難がって大切に所持し、衆寮(看読寮)などで、いつも香をたいて礼拝し、うやうやしく供養していた。
ある時、師の禅師がいわれた、
「お前が有難がっている仏像や舎利は、やがてお前のために、よくないことになろう」と。
しかし、その僧は承知しなかった。そこで師はいった、「そんなものは、天魔である波旬が、とりつくところだぞ。早く、それを捨てないか」と。
その僧が憤然として立ち去ろうとしたとき、そのうしろから師は、声をかけていった、「その箱を開いて見るがよい」その僧が怒りながら、その箱を開いてみると、はたして毒蛇がとぐろをまいていた、という。」
という話です。
「波旬」というのは、解説には「天魔波旬」、欲界の最上位、第六天の魔王。その名は波旬」とあります。
さて岩波書店の『仏教辞典』で詳しく学びましょう。
まず「<魔>とは、死あるいは殺を意味するサンスクリット語マーラに相当する音写。
もともと「魔」という漢字はなかったが、マーラの音写のために作られたという。」
のであります。
なんと漢字の「魔」はサンスクリットのマーラの為に作られたものだというのであります。
マーラですから、<魔羅(まら)>とも音写されています。
「魔羅」も『広辞苑』に、
「〔仏〕(梵語māra)
「仏道修行を妨げ、人の心を惑わすもの。仏伝では、釈尊の成道を妨げようとした魔王の名。魔。」と解説されています。
『仏教辞典』には、
「『大智度論』五に「慧命を奪い、道法功徳善本を壊(やぶ)る、この故に名づけて魔と為す」とある。
魔羅をときに<悪魔>ともいうが、仏教の<魔>はキリスト教など他宗教の悪魔とは著しく性格を異にする。
仏教の<魔>に相当するものは婆羅門教にも見られないが、同教典籍に登場するヤマ(冥府の主、閻魔)、カーマ、イーシヴァラ(自在天(じざいてん))、ナムチなどの諸神格とおそらくなんらかの連関をもつものであろう。」
と書かれています。
更に
「仏教の<魔>のもつ多様で複雑な性格を一言で表すことは難しいが、人の生命を奪い、仏道修行などもろもろの善事に妨害をなすというのがおそらくはその根本性格であろう。」
と説かれていて、これは『広辞苑』の解説などと一致します。
そこから更に「四魔」について解説されています。
「蘊(うん)魔・煩悩(ぼんのう)魔・死魔・天子魔という四種の魔」です。
「<蘊魔>と<煩悩魔>とは、人間を構成する五蘊(ごうん)および人間存在にまつわる百八煩悩をそれぞれ、結局は人命を奪うものたる<魔>と見なしたもの」であります。
これなどは、外から襲ってくる悪魔とは異なる概念であります。
そして「<死魔>とは死そのもの」であります。
これら三種の魔は、人間の内面の魔であると言えます。
もう一つの第四の<天子魔>とはどんなものかというと、これが「外的世界を支配する一種の神としての<魔>であり、<他化自在天子魔>と名付けられる」ものです。
「この他化自在天は欲界の最上部たる第六天であり、魔界というよりはむしろもろもろの快楽をもたらす善美を尽くした楽園である。
ここに住む天子魔は弓を携えた愛神カーマのような姿をとるとされ、もろもろの眷属とともに、人間の善事を妨げ、聖者の法を憎み、さまざまの手だてをもって出世間(出世)を志す修行者を誘惑し堕落せしめるものと考えられている」ものなのです。
仏教ではこの世界を欲界・色界・無色界の三界に分けて考えます。
欲界は文字通り欲望の世界です。
六道輪廻のうち、地獄から人間界までと天上界の一部はこの欲界です。
この欲界は魔の支配を受けています。
仏道修行の完成をめざすならば、必ず<魔>の妨害と誘惑とを完全に克服することに努めねばならないのであります。
お釈迦様が成道するときにもこの悪魔の軍勢と戦って克服されたのでした。
『ブッダのことば』には、悪魔の軍勢について次のように書かれています。
「汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである」というものです。
しかし、悪魔の軍勢も、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。
しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙をみつけることができなかった。
烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか?
味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。
そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。
岩石に近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る。」ということとなりました。
お釈迦様には魔のつきいる隙は無かったということなのです。
横田南嶺