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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.06.18
今日の言葉

腰を立てる

先日佐々木奘堂さんにお越しいただいて、いつもの坐禅講座を行ってもらいました。

この春修行道場に入った方にとっては、はじめての奘堂さんの講座となります。

いろんなことを学んできていますが、奘堂さんの坐禅講座は独特なものであります。

今回は、円覚寺の総門の下に掲示している坂村真民先生の詩のことから話が始まりました。

いくら思うてもわからない
いくら議論してもわからない
それを不思議という
そういう世界のあることを
一輪の花が知らせてくれる
一羽の鳥が教えてくれる

という「不思議」(坂村真民全詩集第五巻)の一節であります。

実際には、このあと更に

咲き出した茶の花
やってきたつぐみ
大自然の推移のなかに
生きとし生けるすべてのものが
目には見えない深い愛のなかに
生かされ生きているこの不思議に
おのずと手の合わされる
素直な心になったら
憎しみあい殺しあう悲惨冷酷さも
いくらか治まってゆくだろう
あまりにも悪に傾いてゆく
世相を見つつ祈るや切

と続いているものです。

奘堂さんは、いくら思っても、いくら議論しても、いくら考えても分らない不思議の世界を説かれました。

知って覚えても届かない、いくら技法や作法を身に付けても届かない世界があるのです。

奘堂さんは、そんな世界をディオニソス像に接して学ばれたのでした。

奘堂さんは、東京大学で哲学を学び、京都大学の大学院で心理学を学ばれて、ご著書もあるほどの方であります。

そこから更に禅を求めて相国寺で坐禅され、出家して修行道場にも入って坐禅をなさった方であります。

坐禅に打ち込んで来られたのですが、パルテノン神殿のディオニソス像に接して、この彫刻の生きた息吹に圧倒されたと仰っています。

奘堂さんは、血の通った人間よりも、この石で出来た彫像の方が生きているという、どう考えても不思議なることに出くわしたのでした。

坐禅というのは、決められた作法通りに足を組んで坐るのですが、ディオニソス像は足も組んではいません。

それでもいきいきとしているというのです。

今回は、画像でディオニソス像を示して下さることはなかったのですが、赤ちゃんの坐る姿勢を動画で示してくださいました。

これは以前にも拝見したことのあるものです。

季刊誌『禅文化』にもそのことについて書かれたことがありました。

赤ん坊というのは、だいたい七,八ヶ月ほどでお坐りができるようになるそうなのです。

個人差はあって、一歳までにはほとんどお坐りができるようになります。

奘堂さんは、本や動画で学ばれて、0歳児の赤ちゃんの坐った姿勢は、実に端正で、正身端坐の姿だと思っていたそうです。

私も赤ちゃんが自然と腰を立てて坐っている写真などを拝見したことがあります。

生まれて間もない頃は、自然と腰の立った坐り方ができるのだと思っていました。

0歳児の端正な坐りから比べると、大人の姿勢は、イスに座った姿勢でも、我々の坐禅の姿勢でも、ゆがんだり、力んだりしていて正身端坐にはほど遠いものとなってしまっています。

0歳児も二,三歳になると、だれもが腰が落ちてゆがんだ姿勢になってしまうものだそうです。

ところが、0歳児でも腰が落ちて背中が丸くなってしまう場合があります。

それはどういうことかというと、赤ちゃんが自然とお坐りをする前に、お坐りの形を取らせて、無理にその姿勢を保たせようとするお坐り練習をさせた場合に、腰が落ちて背中が丸くなってしまうというのです。

0歳児が、お坐りできるようになるには、「首がすわる」「寝返りする」「ずりばい」をするという段階を経ます。

「首がすわる」というのは大事で、自分の意志で見たい方向をちゃんと見ることができることです。

今回も腰が立つということには、この首がすわることの大切さを学びました。

きちんと見る方向を見る意志が大事なのです。

人から何らかの姿勢を強制されてしまうとダメで、腰が立つには、本人の主体的な意志がなくてはなりません。

首がすわり、相手を見ようとすることが大事になってきます。

これは我々の坐禅の修行においても考えさせられることであります。

やはり自らの主体的な意志で坐らないと腰は落ちて背中が丸くなってしまいます。

強制的に腰を立てさせても、それでは坐禅という決められた時間は取りつくろって坐るのでしょうが、それ以外の時間には腰が落ちてしまいます。

もっともそういう修行が多いのが現状です。

やはり修行道場では規律を尊びますので、坐禅というとみんなが坐禅堂に坐って、無理にでも腰を立てさせて、その姿勢を維持させるように強要するという一面があります。

そうすると終わるとだらけてしまったり、誰も見ていないとだらけてしまいます。

常に坐禅工夫するというようにはいきません。

またそのように無理に坐るということは、形はきれいに見えてもどうしても腰や膝などに負担のかかる無理な姿勢になってしまうことが多いのです。

奘堂さんは坐る練習が腰抜けの姿勢を作るのだと指摘されました。

ハイハイをするところからお坐りへと継ぎ目なく、意識せずに坐るのがいいのです。

そんな赤ちゃんのお坐りの話から具体的に腰を立てる実習を行いました。

まず奘堂さんは、坐禅は身体技法ではなく祈りであると仰いました。

私たちの思いこみや知識をすべて投げ放って大地に伏すところから始めました。

そこからすっと上体を起してゆくのです。

自然と無理のない腰ができてゆきます。

この無理のないというところが大事で、無理に坐らせると、きれいに坐っているように見えてもダメなのです。

大地にわが身を投げ放ったところからすっと上体を起すことを何度も繰り返しました。

そして寝返りを打つときにも腰が立つ鍵があるので、その動きも何度も実習しました。

蹲踞の姿勢、膝立ちの姿勢もまた自然と腰が立ちやすいものです。

いつもながら熱意のあふれる講習でありました。

 
横田南嶺

腰を立てる

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