器の水を移すように
駒澤大学の小川隆先生がよく禅宗の特徴として、「伝灯」の系譜、「清規」、そして「問答」と「語録」の三つをあげておられます。
伝統の系譜というのは禅では、初祖達摩大師、二祖慧可大師、三祖僧璨禅師、四祖道信禅師、五祖弘忍禅師、六祖慧能禅師という伝法の系譜を共通に信奉していることであります。
達磨大師から教えを継承したのが、慧可大師であります。
慧可はもともと神光と言っていました。
達磨大師を訪ねて「私はまだ心が不安です。どうか安心させてください」と願いました。
それに対して達磨大師は、「ではその心を出してみなさい。あなたのために安んじてあげよう」と言ったのでした。
その不安だという心をここに出してみなさいというのです。
そういわれて、神光は、「いくら心を探してもついに得ることができません」と答えたのでした。
そこで達磨大師は、「あなたの為に心を安んじてあげたぞ」と言ったのでした。
神光は、慧可と名を改めて、達磨大師の継承者として法を説かれました。
そこに三代目の僧璨禅師がやってきました。
『景徳伝灯録』には、北斉の天平二年西暦五三五年に、一人の居士として二祖を訪ねてきたと書かれています。
年は四十歳を超えていたといいます。
名前も告げずに、二祖に自分は「風恙に纏わる」と告げます。
風恙というのは、はっきりしませんが、後に瑩山禅師は、風恙というのは癩病のことだと註釈をなされました。
癩病というと、ハンセン病のことであります。
ハンセン病というのは、1873年にノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンが癩菌を発見したことに由来しています。
かつての日本では「癩」や「癩病」と呼ばれていましたが、今は使われないようになっています。
ハンセン病について、医療や病気への理解が乏しい時代には患者への過剰な差別があったという問題がございます。
悪業の報いでかかる業病だと思われていた時代があったのです。
僧璨禅師もそのような思いから、自分の罪を許して下さいとお願いしました。
すると慧可大師は、罪を持ってきなさい、あなたの為に許してあげようと言いました。
そう言われて僧璨禅師は罪を探しても見当たりませんと答えます。
そこで慧可大師は、あなたの為に罪を許し終わったと言いました。
慧可大師が達磨大師から心を持ってきなさいと言われて、心を探しても見当たりませんと答え、それで心を安らかにし終わったと言ったのと同じような問答であります。
慧可大師は、僧璨禅師に罪を許し終わったので、仏法僧によって暮らしなさいと言いました。
僧璨禅師は、その仏法とは何ですかと問います。
慧可大師は、「是の心は是れ佛なり、是の心は是れ法なり。法と佛は二無し、僧宝も亦然りと」と答えます。
この心が仏であり、この心が法であるというのです。
法も仏も別物ではない、みなこの心だというのです。
更には僧というのもこの心だとお示しになりました。
そこで僧璨禅師は、「今日、始めて知る、罪性、内に在らず、外に在らず、中間にも在らざることを」と言いました。
今まで罪にまとわれていると思い続けてきたけれども、罪は、心の中にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にもないことが分りましたというのです。
この心がそうであるように仏法も別物ではないと言って、慧可大師は、僧璨禅師のことを、教えを受け継ぐに足る器だと認めたのでした。
そこで剃髪してあなたは私の宝であるといって僧璨禅師と名付けたというのです。
『観普賢菩薩行法経』には、
「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端座して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」という言葉があります。
罪や汚れなどと思っているのは、みな実体のない虚妄から生じるのだというのです。
正しく坐って真実の相を見ることができれば、そんな罪も汚れも朝日に照らされた霜のように消えてしまうというのです。
『楞伽師資記』には次のように書かれています。
筑摩書房『禅の語録2初期の禅史1』にある現代語訳を引用します。
「隋のくに、舒州思空山(現在の安徽省太湖県の西北部) の粲禅師は、可禅師の後継者である。
この粲禅師は、その素性を知ることができず、また出身地もわからない。
『続高僧伝』を調べてみると、「可禅師の後は粲禅師」といっているだけである。
かれは思空山に隠退して、いともしずかに坐禅するばかりで、著書をあらわさず、口をとじて人に法を説かなかった。
ただ道信という修行者だけは、粲禅師に師事すること十二年で、一つの容器の水を完全に他の容器に移し、同じ燈火を他に点ずるように法を伝えて、あますところなく成しとげた。」
と書かれています。
更に
「偉大なる師は言われた、「世間の人々は、みな坐禅したまま死ぬのを尊び、めずらしいといってほめる。
わたしはいま、立ったままで死のう、わたしにとっては、生きるのも死ぬのも思うままである。」
こう言い終って、かれは手で樹木の枝をつかむと、たちまちにして息がたえ気が尽きた。」
と、その最期の様子が書かれているのです。
実に不思議な禅僧ですが、二祖禅師から法を受け継いで、それを一つの容器の水を他の容器に移すように四代目となる道信禅師に伝えたのでした。
こうして達磨大師、慧可大師、僧璨禅師、道信禅師へと教えが継承されて今日に到ります。
この僧璨禅師が残された書物が『信心銘』なのであります。
横田南嶺