祈りとは
「祈願という言葉を分析すると、祈は基督教的であり、願は仏教的である」と書かれています。
なるほど、仏教では「願い」という言葉をよく用いています。
それに対してキリスト教では、なんといっても「祈り」でありましょう。
そのあとに真民先生は、
「わたしは仏教の家に生まれ、満八歳のとき父が急逝した。
わたしはそれ以後毎日夜の明けるのを待ち、共同井戸の水を汲みに行き、臨終に会えなかった父の「のどぼとけ」にお水をあげ、父の守護を切願した。
これはわたしが中学(旧制)を終え、上の学校に行くまで続いた。
上の学校というのは伊勢にある神道系の専門学校であるが、学問にあまり興味を持つことができず短歌ばかり作っていた。」
と書かれています。
熊本に生まれ、十八歳まで熊本で過ごされていましたが、十八歳から四年間は伊勢の神宮皇學館で学ばれたのでした。
その後、真民先生は、昭和九年から終戦の昭和二十年まで朝鮮で教師をなさっていたのでした。
そのあと『愛の道しるべ』には、
「時は茫茫と流れ、国はかつてない敗戦の惨苦を嘗め、わたしも引き揚げ者として故郷九州に帰ったが、縁あって四国に渡り住む身となり、深い仏縁に恵まれ、新しい詩境が展開してきたのである。」
と書かれていますように、真民先生は、昭和二十一年に愛媛県に移り、三瓶町の山下第二高等女学校に勤められたのでした。
この女学校というのが、宇和島の吉田町出身の山下亀三郎氏が、ご自身の母の恩に報いる為に創設した学校でした。
そんな山下氏の理念にも心惹かれて、真民先生は愛媛に移られたのでした。
ご縁は不思議で、この山下亀三郎さんのご子息は、私が以前住職していた円覚寺の黄梅院のお檀家なのであります。
私は、修行僧の頃から、前管長の足立老師のお伴をして、この山下家とご縁があったのでした。
さて『愛の道しるべ』には、更に次のように書かれています。
「さて最初に書いたように願とは仏教的であり、行的なものであり、わたしの血のなかにも、求道的なものが強く流れていて、遂に参禅するまでに到ったのであるが、時宗の開祖一遍上人を知るようになって次第にわたしは、すべてを捨てて大いなるものにこれを託し祈るようになり、それが基督教に接近してゆく機縁となり、今は亡くなられたが祈りにおいては最高最大の人と言われる手島郁郎師にめぐりあうことができたのであった。
わたしはこの人によって祈りというものを本当に知ることができた。」
と書かれています。
この文章の中に、真民先生の精神的な歩みが凝縮して語られています。
求道的な精神が流れていて、禅に参じられたのでした。
これは、真民先生が、三瓶から宇和島の吉田町に移り、吉田高校の教師を勤められたときに、大乗寺に通われるようになったのです。
四十二歳の真民先生が、禅の修行道場に通って、修行僧と同じような坐禅修行をしながら、教師をなさっていたのでした。
吉田では六年間お過ごしになったのでした。
この期間に、「念ずれば花ひらく」などの代表的な詩を作られています。
そして五十歳の時に、松山道後にある宝厳寺の一遍上人のお木像に出逢われるのであります。
この時の思いも、『愛の道しるべ』から引用しましょう。
「四国の松山の誕生地には宝厳寺がある。
その頃は知らない人が多かった。
わたしは尋ね尋ねしてお参りした。そして立像の跣の足に手を触れ、命の交流を乞うた。
その時、一遍の血が流れ込んできたのである。わたしはあの日を終生忘れないであろう。
法師蝉がしきりに鳴いていた。それはわたしの心のときめきそのものであった。母なる大地を踏みしめて歩きまわった足、その足に一遍のすべてが今もやどっているように思えた。
一遍を知るには、まず足を知らねばならぬ、そして、その足音を。」というのであります。
一遍上人は、念仏札をお配りになって諸国を歩いておられたのでした。
そして、五十三歳の時に真民先生は教育者の森信三先生に出合い、毎月『詩国』を発行しようと決意されたのでした。
これは一遍上人が念仏札を配られたように、自分は詩を配ろうと思ったのでした。
その時から毎月自分の作った詩を『詩国』にまとめてご縁のある方へ配られたのでした。
『詩国』は毎月発行されて、九十五歳の時に500号を達成されました。
多い時には千二百通も出されていたといいます。
私も高校二年生の頃からこの『詩国』を送っていただく一員だったのでありました。
禅から、一遍上人へ、そして更にキリスト教の祈りを学ばれたのでした。
真民先生は
「わたしは正師について参禅したので、坐は身についているが、祈りというと何かしら異質的なものがあり、祈りに徹するまでには相当の時間と修練とを重ねた。
何度も言うが一番大切なことは身につけることである。
だからこれはあくまで自分のことなので、あまり人には語りたくないのであるが、もしわたしの祈りに共鳴してくださる方が一人でもあればと思い書いてみよう。
まず午前三時三十六分になると暁天祈願をする。
この時刻にきめたのは、この時刻が野鳥の目覚める平均時刻だからである。
酉年生まれのわたしだから、鳥の目覚める時刻に合わせたのである。
むろんわたしはもっと早く起きているのであるが、二時から四時までの間を、わたしは純粋時間と言っている。
宇宙の霊気が一番充実して、生き生きしている時間だからである。
わたしはわたしの好きな朴の木の下で祈る。
だからわたしの祈りを一番よく知っているのは、この朴の木である。時には朴の木の幹に額を当てて祈ったりする。そんな時は朴と一体になる思いがする。」
と書かれています。
そして、
「暁天の大地に立って、月のある時は月に向かい、月のない時は星に向かい、腹いっぱい光を吸飲して祈る。
その最初の言葉をここにあげよう。わたしはこれを三つの祈りといっている。
一つ、宇宙の運命を変えるような核戦争が起きませんように
二つ、世界人類の一致が実現しますように
三つ、生きとし生けるものが平和でありますように
わたしが敢えて幸福をうたわなかったのは、幸福というものは、各人の心の問題だとしているから」だというのであります。
たしかに「幸福」というのは、その人によって様々であります。
外からみて不幸のように思っても、その人はとても幸福な場合もありますし、その逆もあります。
その真民先生が晩年到達したのが、人生の真理、宇宙の真理ともいうべき「大宇宙大和楽」という世界です。
「大宇宙大和楽」という言葉は真民先生の言葉です。
八一歳の時、宮崎県の高千穂神社を訪れた真民先生はそこで夜神楽を見ます。
その翌々日、熊本県の阿蘇にある幣立神宮を訪問した際、祀られている「大宇宙大和神」という神さまに感動します。
そして大宇宙大和神と夜神楽から受けた「大和楽」という神気とが合わさって、この世は「大宇宙大和楽」であるという真民先生独自の言葉にたどりつきました。
この宇宙はあらゆるものがひとつにつながった美しい調和の世界である、互いに違いを認め合って融合する祈りの世界、大宇宙は大和楽であるという世界観を説かれたのでした。
仏教では「華厳」の世界ととらえていますが、真民先生は「大宇宙大和楽」という独自の言葉で表現しました。
仏教の教え、禅の教えを学びながら、神道も融和させ、真民先生ならではの独自の世界観を築きあげました。
大念願
殺さず
争わず
互いにいつくしみ
すべて平等に
差別せず
生きる
これが
大宇宙の
大念願なのだ
母なる星地球が
回転しながら
そう唱えている声を
聞く耳を持とう
この詩に詠われている、
争わず
互いにいつくしみ
すべて平等に
差別せず
生きる
という願いと祈りを持って生きたいと思うのであります。
横田南嶺