よい日
心の持ちようだと思えばそれまでですが、やはりよい日だなと思うことはあるものです。
本当は、毎日がよい日だということでなければならないはずであります。
唐代の禅僧雲門禅師は、日日是れ好日と仰ったのでした。
「日日是れ好日」という言葉は、私もよく頼まれて書く言葉です。
響きもよいし、書いても、見ても、聞いてもよい言葉です。
朝比奈宗源老師も『碧巌録提唱』のなかで、
「 日日是れ好日。
来る日も来る日もまことに結構な日だ、とこういう。
日々好日ならば、三百六十五日が一年だ、一年が好日。
それが続けば、年々是好年だ。
これを生きる人は、生々是好生。
どこにも不幸な生涯もなければ、悪日もなければ悪年もない、ということ。まことに結構なこと。
それが、日々是好日。 これは、文字だけでも気持のいいことばです。」
と説かれています。
しかしながら、決して自分にとって都合のよい日ばかりが続くこというのではありません。
仏教は、自分の思うようにしたいという我欲が苦しみを生み出すという教えであります。
その点は、朝比奈老師も
「ですがこれは、本当言うと、結構づくめのことが、日々好日なんて、そんなことがあるはずはないんです。
天気にしたって、雨も降れば風も吹く。
台風の日もありゃ地震もくる。
いわんやわれわれの生活の上においておや。
泣いても泣いても泣ききれん。
悔しくて悔しくてたまらん日もある。
そういうときなお、日々是好日底の消息を知らなきゃ、この句は通らん。
いいですか。決して、ただ好いことばかりあるから「日々是好日」なんていうことじゃない。」
と説かれている通りなのであります。
天気にたとえられていますが、よい天気ばかりでないことはよく分かります。
暮れには、強い風が吹いて境内が荒れてしまったことがありました。
そんな時には、掃除が大変なのでありました。
しかし、ずっと荒れるはずもなく、また穏やかな日になるものです。
暮れの最後の日曜日は、実に穏やかな日でありました。
朝方は冷えましたものの、日中は穏やかな日でありました。
その日は、私が住職を務めている傳宗庵で、鎌倉てらこやの朗読会が行われたのでした。
鎌倉てらこやというのは、NPO法人で、「お寺での合宿や朗読会、日本家屋で学ぶ陶芸教室、自然や歴史をめぐり歩く鎌倉散策、海で行う運動会など、地域の魅力をフル活用したイベントを実施」しているものです。
円覚寺でも、山内の塔頭寺院で、朗読会を続けています。
しばらく休会していましたが、私も久しぶりに参加したのでした。
一年間、子どもたちは朗読の稽古をして、年に一度円覚寺の本山で発表会を開いています。
発表会では、私も短い朗読を披露していました。
コロナ禍でしばらくみな休会になっていましたが、来年の一月には開催されそうであります。
穏やかな気候で、傳宗庵からは、真っ白に雪化粧した富士山がきれいに見えたのでした。
富士山が見えると不思議とうれしくなるものです。
そして傳宗庵には、二十名ほどの子どもたちが集まってくれていました。
学生さんたちのボランティアによって運営されています。
はじめにご本尊さまに皆で般若心経を唱えます。
子どもたちも大きな声で唱えてくれていました。
そして私が短い挨拶をします。
その日は、子どもたちには、新しくできた絵本『パンダはどこにいる?』を差し上げたのでした。
その絵本の朗読をしました。
短い話なので、すぐに終わる朗読であります。
この絵本を子どもたちがどのように受けとめられたのか、知ることはできませんが、実は深い内容なのであります。
これは『臨済録』で説かれている「無事」という教えを説いています。
「無事」は何事もないという意味で使われていますが、臨済禅師は、外に向かって求める心がやんだのが無事だと説かれています。
そのことについては、山田無文老師の『臨済録』を参照してみましょう。
「室羅という街に演若達多という美貌の青年がおった。
毎朝、鏡を見て化粧をしておったが、ある日、鏡を見たところ、頭がない。
きっと夕べ寝てる間に頭を取られたに違いない、と街の中へ出て、私の頭をご存じありませんか、そこらに落ちていはしませんでしたか、と言うて頭を尋ねて歩いた。
そう言うておるのが、おまえさんの頭ではないか。
おまえさん、頭があるから尋ねておれるんではないか、と言ってみなに笑われた。
そう言われて、頭に手をやってみたら、頭がちゃんとあった。
その日の朝はうろたえて、鏡の裏で見ておったのである。
そういう話があるが、みんなもそうだ。
心の中にちゃんと仏を持ちながら、その仏を放って置いて、外に向かって仏を求め神を求めているのだ。
外に向かって求める心がなくなった時に、初めて無事是貴人だ。
もう何も求めるものはない。
天下に求めるものは何もないというところが、臨済の境地である。」
というのであります。
自分の頭がありながら、頭を探しにまわるようなものだというたとえなのです。
パンダが、自分がパンダであることを分からずに、そとに向かってパンダを求めるのであります。
しかし、気がついてみれば、自分はもとからパンダだったという話にしてみたのです。
大事なことは、泥で汚れていたパンダが、きれいに汚れを取ったら、パンダになったという話ではありません。
努力してパンダになったという話でもないのです。
もとからありのままでパンダなのだというところが大切なのであります。
盤珪禅師は「不生の仏心」と説かれました。
仏の心というのは、なにか特別の修行をして現れてくるものではないのです。
もともとはじめからそのままで具わっているものなのであります。
その内容がどこまで伝わるか分かりませんが、横山由馨さんが描いてくれたかわいいパンダの絵を見て喜んでもらうだけでも十分であります。
元気な子どもたちに接して、戻る途中に、境内で二人のお若い方から声をかけられました。
「横田管長ではありませんか」というのです。
「そうです」というと、とても感激して喜んでいる様子です。
「私のことをご存じですか」と聞くと、「いつもYouTubeで見ています」というのでした。
二人で「こんなところで会えるとは」といって興奮していました。
私は内心、「渋谷の町で私を見たら驚くだろうけれども、ここは円覚寺で私の住んでる寺なのだから、円覚寺で私を見ても驚くに値しないだろう」と思っていたのですが、考えてみれば、円覚寺を訪ねても私に会えるというわけではありません。
お二人にとっては驚きであり、喜びだったのでしょう。
写真を撮っていいですかと言うので、喜んで応じました。
そんなことがあると、やはり「よい日」だと思ったのでした。
横田南嶺