修行は愉しいものか?
そこには、俳優の大谷亮平さん(42)が二十七日に開幕する全国高校ラグビー大会のハイライト番組(MBS)で司会を務めることになったと書かれています。
大谷さんは、ラグビーが題材のテレビドラマに出演した縁があるのと、名門の大阪・清風高バレーボール部員だった経験を持つのだそうです。
大谷さんは、自身の高校時代のことを振り返ると「きつくて苦しくて、何が楽しかったのか」と仰ったというのです。
スポーツの名門校だというと、それほど厳しい練習をなさるのだと思いました。
きつくて辛い練習をただひたすら繰り返していって、成果を得られるのでありましょう。
私などもそこまで読んでいてその通りだと思ったものでした。
しかし、そんな大谷さんが今回ラグビーの強豪校を取材した際に、
「選手に笑顔が見えたり、指導者が褒めたりする場面が印象的だった」というのであります。
選手に笑顔が見えることや、指導者が選手を褒めることなど、厳しい練習をしてきて大谷さんには考えられないことだったのだと察します。
記事には
「多くの競技で伸び伸びとプレーする選手の姿が増えたと感じていた」のだそうです。
そこで、大谷さんは「それがどっちに動くか興味があった」というのです。
「厳しさが減っても選手は伸びるのか」という問いであります。
そんな厳しくない練習などをしていると、成績も落ちるのではないかと思ったのでしょう。
しかし、大谷さんは、
「世界に羽ばたく選手が増えたのだから良い方向に向かった」というのです。
記事には
「一方で「うらやましい」とも。耐えて自らを鍛えた3年間と比べ、複雑な心境なのかもしれない。」というのであります。
スポーツの世界が大きく変わってきたのだと思いました。
私などはまだ厳しく鍛えるという方法のなかで学んできましたので、いまだに厳しさが必要だという考えが強く残っていますが、いろいろと考えさせられることでした。
記事を切り抜いてあれこれと考えているうちに、十二月六日の毎日新聞の朝刊、みんな広場に、七十代の方が書かれていたことが印象的でありました。
題は、「自分に感謝し「ありがとう」」というのです。
その方は自己肯定感が低いというのは、今の子どもだけでなく、団塊の世代も同じではないかと言います。
記事によれば
「「子供を甘やかすと増長する。厳しく教育するに限る」とばかり、軍隊式スパルタ教育で鍛えられ、褒められた記憶はほとんどありません。
そのせいでしょうか、大人になっても自信というものがなく、たまに褒められても「いやいや、そんなことはない」と素直に受け入れようとしません。」
と書かれています。
そこでその方はある新聞広告で知ったことをもとにして、自分の名前を声に出して言い、その後に「ありがとう」を付け加えるということをするようになったのです。
お風呂の中で百回行っていると書かれていました。
記事の最後には、
「残り少ない人生、自分にも他人にも感謝し、できるだけ心穏やかに過ごしたいものです。」と書いていました。
この問題は我々の禅の修行についても考えさせられるものです。
私なども「甘やかすと駄目だ、厳しく鍛えるに限る」という方針の下で修行させてもらってきました。
とりわけ円覚寺でお仕えした先代の足立管長は、つねづね、修行僧を鍛えるのは麦踏みと同じだと仰っていました。
麦踏みというのは、踏めば踏むほどよくなるということなのです。
徹底した「自己否定」を強要されていました。
三十年お仕えしてきて、褒めるなどということは、全く無く、頂戴するのは罵詈雑言か皮肉か嫌みばかりでありました。
修行する方も、修行というのはただ歯を食いしばって耐えるのだと教えられていました。
耐えて耐えて耐え抜いてこそ人格は向上するのだという理論であります。
そんな教育を受けてきた私にとって、近年出会った藤田一照さんの言葉は衝撃的でありました。
一照さんは、
「修行って実は愉しいものなんですよ。」というのです。
もっとも一照さん自身は、厳しい修行を耐え抜いてきた方なのですが、その結果今は笑顔で「愉しいものだ」と仰います。
一照さんも「修行ってそういう辛いものだと思って始めたんですが、やっているうちに実はそうではなかったんだということに気がつきました。
禅の修行は愉しい学びの営みだったのです。
そのおかげで僕の前にまったく違った人生の風景が開けてきました。」
と語っています。
そのことに気づかれたきっかけは、ベトナム人禅僧ティク・ナット・ハン師との出会いだったとうかがいました。
ティク・ナット・ハン師は、阪神淡路大震災とオウム真理教事件という特筆すべき事件が起きた一九九五年に来日されました。
一照さんはその通訳チームの一員として当時住んでおられたアメリカから招聘されたのでした。
二十日間にわたってティク・ナット・ハン師の一行と行動を共にされたのでした。
ある日の早朝、ティク・ナット・ハン師がお弟子さんと一緒にプライベートに散歩をされているところにたまたま出くわしたのだそうです。
ティク・ナット・ハン師は一照さんを招き寄せて、一緒に並んで歩くように誘われました。
「一照さん、笑顔だよ! 修行は楽しいものでなくてはなりませんよ」と仰ったというのです。
更にティク・ナット・ハン師は
「ブッダもそうだったんですから。
気難しくしかめっ面をしている人の周りには、人は集まりません。
ブッダが愉快で幸せそうに歩いているから、その周りに人が集まったんですよ。
ブッダの生き方を見習おうとしている私たちもそうでなければならないし、そういうあり方ができるような修行をしているんですよ」と微笑みながら諭してくれたという話なのです。
さて只今の我々の修行道場では、そう簡単に修行は愉しいものだと言える状況にはありません。
厳しくしなければという伝統が強く残っています。
しかし、修行する人が益々減っているのも現状であります。
そんな現状に対して、耐えられない若い者が駄目だと思うのか、根本的に考え方を改めてみようと思うのか、これはとても難しい問題であります。
横田南嶺