なぜ苦しむのか – 十二因縁について –
我々が迷いや苦しみを引き起こす一番の原因は、無知であると仏陀は説きました。
無知を「無明」といいます。
なにも分からない、混沌として無知なる状態から、何かしらの力がはたらいて意識が生まれます。
この何かしらの力がはたらくのを、「行」と言いました。
梵語でサンスカーラというのです。
潜在的形成力などと訳されたりします。
なにかしたら力がはたらいて、なにかが形成されてきて、意識が生じるのです。
この意識を「識」と言います。
まだこの意識は盲目的なものです。
この盲目的な意識がこの身心にはたらくようになります。
この身心が「名色」です。「名」は精神的なもので、「色」は物質的なものです。
そこで「名色」で心と体なのです。
この心と体に、六根という目や耳や鼻や舌や身体や精神の活動が起こるようになります。
これが「六処」です。
するとその六つの感覚器官が外の世界に触れます。
これが「触」です。
触れると、自分にとって何か心地好いか、心地よくないかと感じます。
これが「受」です。
そこで好ましいものには愛着を生じます。
これが「愛」です。執着であります。妄執とも言います。
愛着を起こすと更に自分のものにしたくなります。
自分のものに取り込もうとしますので、これを「取」と言います。
執着であります。
そうして自分のものという概念が生まれます。
自分のものを集めて大事にし、さらにもっと増やしたいという生き方が出来てきます。
これが「有」です。 生存のことです。
そのように生きて活動して、自分の思うままにゆくと悦び、思うままにならぬと苦悩するという生涯を送ります。
これが「生」です。
やがては老い衰え、そして最後はすべてを手放し、死を迎えます。
これが「老死」であります。
この無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二を十二因縁というのであります。
一切は無常であり、自分という孤立したものはないし、自分の思うようにもいかないのに関わらず、自分というものが存在し、自分の気に入ったものを自分のものにしたい、更にはもっと増やしたいという思いを起こします。
こう思うことによって苦しみを造り出すのです。
苦しみの原因は、無常であることを知らない、自分という孤立したものはないことを知らない、思うようにならないということを知らない無知にあります。
これを無明と言います。
この無用からどのようにして、私たちが苦しみを造り出しているのかを、よく観察します。
それが十二因縁を観じるという修行であります。
大事なことは、苦しみの原因は無知、無明、現実を誤ってみることにあるのです。
常に変わりゆくものを永続するものと考えること、それが無明です。
自己という固定したものがないのに、あると考えること、それが無明です。
思うようにはならないのに、自分が主宰者のように思う通りにできると考えるのが、無明なのです。
貪りも怒りも恐怖も嫉妬もそのほか数え切れないほどの苦しみは無明から生まれます。
その無明から解放されるためには、物事を深く見つめて無常の本質、独立した自己がないこと、全てのものは相互依存して存在しているので、自己の思うようにはならないことを深く理解することです。
これが無明を克服する道の第一歩です。
完全に無明を克服することができれば、苦しみも超越することができるのです。
十二因縁は、後に説一切有部という部派によって、
無明と行は過去世の因であるとして、識から受までを現在世の果として、愛と取と有を現在世の因として、生と老死を未来世の果とみて、胎生学的に解釈するようになりました。
無明は迷いの根本で、なにもわからない状態です。
行はそこから命なるものが形成されるはたらきです。
これが前世のことになります。
そして三番目に識が受胎して意識を生じるのであります。
名色は母胎の中で心の働きと身体とが発育する段階です。
六処は六つの感官が備わって、母胎から出ようとしている段階です。
触は二~三歳ごろで、苦楽を識別することはないが、物に触れる段階です。
はじめはお母さんに抱かれると、気持ちいいと感じますし、他人に抱かれると不愉快になるのです。
受は六~七歳ごろで苦楽を識別して感受できるようになる段階です。
愛は十四~十五歳以後、欲がわいてきて苦を避け楽を求めたいと思う段階です。
取は自分の欲するものに執着することです。
有は生存であり、未来が決まってゆきます。
来世の生を迎え、やがてそれも老死を迎えるのです。
これを三世両重の因果と言います。
椎尾弁匡僧正は、十二因縁を
分からずに(無明)流れ(行)を認め(識)るとき、そこには主観客観に対立(名)が現れる。そこに外界(六処)ありとし、それを経験(触)する。そこに苦楽(受)ありて愛憎(愛)する。そこで取捨(取)し行為力(有)により今の存在(生)となって次に移る(老死)と表現されています。
また椎尾弁匡僧正は
釈尊の大悟について次のように語っておられます。
「伝えるところによると、釈尊は暁の明星出づる時、廓然として悟られたという。
このことは暁でも昼までも夜でも、時期そのものには何等問題はないので、自己の暗黒の心中に太陽の昇る気持ちを表現したものであると思われる。
大自然は無量の条件が和合する上に成立している。
この身も、この心も、わが所得するものではない。
自己の心身は大自然の和合の上に現れている。
茲に至って、真の自然人となり、一切の束縛を脱することが出来る。
既にここにあっては、大自然の総ゆる力に順って活動することができる。
それは自己が動くのでなく、天地の力が動くのである。
この天地の力こそ、進んで止まざる大生命である。
斯かる心境に達するとき、両手はおのずから合掌されて、われは天地の恵みなり、われは天地の生命であるとの躍動が湧く。
そこには帰依、合掌、廓然大悟があるのみとなる。」
というのであります。
我無し、無我ということは、大いなる天地のはたらきになって現われていることであります。
その大いなるはたらきにまかせるのが、我々の行っている坐禅であり、浄土門では御念仏になるのであります。
横田南嶺