慈悲の極み
それらの行事も、だいたい今年になってどうにか開催しているところであります。
まだ延期になっていたものがすべて終わったわけではありませんが、先日は静岡県湖西市の東福寺というお寺の法話会を行うことができました。
この法話会ももともと二〇二〇年の春に予定されていたものでした。
新型コロナ感染症の蔓延によって、延期になったはじめのころであります。
何度も延期を繰り返して、どうにかこの十月に開催できたのでした。
じつに二年半以上も延期されたのでした。
それだけに感慨無量でありました。
湖西市の東福寺さまに、七年前にも法話会で話をさせてもらっています。
私としては七年ぶりであります。
お寺としても、令和元年に法話会を行って以来、ずっと休みになっていましたので、三年ぶりになるのであります。
東福寺というのは、臨済宗方広寺派のお寺であり、只今のご住職は布教師でもあって、とても布教に熱心であり、よく勉強もされています。
ふだんから懇意にさせてもらっている和尚様であります。
という次第で、お寺にとっても久しぶりの法話会となりました。
しかもその日は、秋の爽やかな気候に恵まれました。
暑からず、寒からず、雨もふらず、風も吹かずで、実に良い気候でした。
一年三百六十五日あってもこんな穏やかな一日は、そうあるものではありません。
そんな中での法話会でありました。
ただまだ残念ながら、東福寺さまの本堂はとても大きいのですが、その中に入れる方はかなり人数制限をしていました。
人数制限をしたので、円覚寺のYouTubeチャンネルで、ライブ配信もしたのでした。
東福寺さまの関係の方々でも当日お越しになれない方は、この動画をご覧いただこうという和尚さまの思いであります。
そこで、撮影の者と共に湖西市にある東福寺さままで出掛けてきたのでした。
私が七年ぶりに東福寺で話をすることになると、和尚様が私の法話の前に紹介してくださっていました。
控え室で、その言葉を聞きながら、七年の歳月を経て、多少進歩したのであろうか、考えさせられました。
確かに七年の間には、実に多くの法話、講演、講座、セミナーなどを行ってきました。
おそらくや千は超える数だと思います。
それだけ数はこなしてきたものの、進歩したのかと考えると、だんだん劣化したのではないかと反省させられます。
話した内容は、この管長日記でも繰り返しご紹介してきた慈悲についてであります。
というのは、いろいろのところから取材を受けたりしますが、今の時代、これからを生きてゆくのに何を頼りにすべきかと考えるとやはり慈悲の心が大切だと思うのであります。
朝比奈宗源老師の言葉に
「心に慈悲を抱く人の顔は常にあたたかい、慈悲は人生のともしびである」というのがあります。
慈悲こそは人生のともしびであります。
この混迷の世を照らす明かりなのだと思うのであります。
そこで、赤ん坊が井戸に落ちそうになっていると思わず手を差し伸べるという惻隠の情の話から慈悲について語り始めて、赤ん坊や、かわいい動物などには容易に慈悲の心を起こしますが、それが必ずしもすべてのものにまで及ばないのがお互いであることを話しました。
そこから三種の慈悲の話につなげて、やはり正しい道理を学んで慈悲の心を起こすのが大事だと話をしました。
正しい道理とは、一切皆空であるという真理であります。
空というのは実体がないこと、孤立して存在するものはないことです。
関係性、関わり合いによって、相依相関関係にあるということをしっかり自覚するのです。
そうして慈悲の心を自分だけなく、まわりに広げてゆくのであります。
数年間に東福寺の和尚様から教わった絵本『わたしはひろがる』の話も引用しました。
はじめはお菓子を一人で食べるのが幸せという段階で、これは私が世界のすべてというのであります。
それが更に、弟も自分と同じようにお菓子を欲しがっていることを理解して、弟にも分けてあげるのであります。
分けてあげると、自分の食べる分量は減るのですが、二人で分けていただく喜びがあります。
こうして、弟が私の中に入ってきたというのです。
私が弟にまで少し広がったのです。
お母さんがいて、どんなに急がしくしていても全く平気だったのでした。
それが、お母さんたいへんだと思ってお手伝いをするのです。
お手伝いをして楽しいと感じるようになりました。
こうしてお母さんが私の中に入ってきたというのです。
私は更に広がったのであります。
今度は、学校で友達と一緒に勉強することを覚えてゆくのであります。
そんな楽しさを感じると友達がわたくしのなかにはいってきたのです。
私は更に友達にまでひろがったのです。
それから今まで苦手だった養護学校の子たちと交流するようになって、とてもあんなすなおな子にはかなわないと思うようになって、養護学校の子も私のなかに入ってくるのです。
私は更に広がるのであります。
そこから更にこの国のことを思い、そして世界の平和のことまで思うようなって、私は更に広がるという話しなのであります。
自分の身内だけではなく、どんどん慈悲の心を広げてゆくことなのです。
そうして究極は誰に対しても慈悲の心で接するようになれれば理想なのであります。
そんな理想の例として河野宗寛老師の話を紹介したのでした。
宗寛老師は、明治三十四年にお生まれになり、昭和四十五年七十歳でお亡くなりになっています。
大分のお生まれで、八歳で大分にある万寿寺で出家されました。足利紫山老師のお弟子になられました。
岐阜県伊深の正眼寺僧堂や京都の相国寺僧堂で修行され、昭和十四年、四国の大乗寺に住職されました。
そこで四国唯一の臨済宗の専門道場を開かれたのでした。
昭和十七年には、満州に建てられた妙心寺の別院に赴任されて、現地で禅の指導に当たられることになりました。
終戦を満州の地で迎えられた宗寛老師は、戦後の大変な混乱に巻き込まれてしまいました。
当時は自分一人だけでも帰国するのは至難のことでした。
しかし、宗寛老師は慈悲心の深い方でありました。
町に出てみると、親を亡くして行き場もない大勢の孤児たちの姿が、眼に映ってきたのでした。
厳寒の満州では、「三日ぐらい食べなくてもよいが、冬に暖房がなければ一晩で凍え死ぬ」と言われたところです。
宗寛老師は、いち早く坐禅堂を孤児院として開放し、自ら私財をなげうって石炭を買い集め、町にあふれる孤児たちをかくまわれ、「慈眼堂」を開いたのでした。
当時の思いをこのように詠われています。
戦に敗れし日より憂きことは
親のなき子らのさまよひあるく
それまでは禅によってひたすら精神の鍛練を説かれた宗寛老師が、一転して多くの孤児たちの親となられたのでした。
今日よりは親なき子らの親となり
厳しき冬を守りこすべし
と当時の決意を和歌に詠われています。
親のなき子らをともなひ荒海を
渡り帰らんこの荒海を
およそ三百名に及ぶ孤児たちを連れて宗寛老師は、昭和二十一年の八月無事帰国されました。
老師は後に東福寺様のご本山である方広寺の管長にも就任なさっているのであります。
命をかけて、多くの孤児たちを祖国に渡り帰らせた慈悲行の極みでありましょう。
お互い我が身かわいいのが真実でありますが、こうして慈悲の心を徹底された方もいらっしゃいます。
及ばずとも、そのような理想を心に持っておくと、進むべき道筋を間違えぬようになると思います。
そんなことをお話しした法話会でありました。
横田南嶺