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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.09.30
今日の言葉

無常と知りつつも

お彼岸の最中に、お葬儀を勤めました。

古くからのご縁があり、私の日程の調整もできたのでお勤めすることができたのでした。

かつて葬儀には、四本幡というのを作っては掲げたのでした。

この四本幡には、

それぞれ頭に仏法僧宝と一字ずつ書いて、その下に

諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

と書いたのでした。

これは雪山偈とも呼ばれます。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「雪山偈」として

「雪山童子が雪山において羅刹(食人鬼)から聞き伝えたとされる偈(詩句)。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」

(作られたものはすべて無常である。生じては滅していくことを本性とする。生滅するものがなくなり、静まっていることが安らぎである)の四句からなる。」

と解説されています。

そして「句そのものは原始経典の涅槃経(大般涅槃経巻下。なお同経のパーリ語原典や遊行経などの他の漢訳では第3句が若干異なっている)に見られるが、雪山偈の名は大乗涅槃経巻14の説くところに由来する。

この偈は、<諸行無常偈>の名でも知られており、伊呂波歌(いろはうた)はこの偈の和訳とされる。」

と書かれています。

いろは歌というのは、この偈を和歌にしたものと伝えられています。

ついでにいろは歌について『仏教辞典』には

「伊呂波歌」として

「音の異なるすべての仮名を集めて、同じ仮名を重複させずに七五調四句四十七字にまとめた誦詩。作者未詳。

「色は匂(にほ)へど、散りぬるを、我が世誰ぞ、常ならむ。有為(うゐ)の奥山、今日(けふ)越えて、浅き夢見じ、酔(ゑ)ひもせず」と読まれる。

雪山偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の和訳に当るという。」

と書かれています。

長らく弘法大師の作と言われてきましたが、「現在は空海作とは認められていない」と書かれています。

雪山童子の話は、これも『仏教辞典』を参照すると

「大乗涅槃経巻14に説かれる釈尊の前世のすがた。

雪山で修行していたのでこの名がある。

帝釈天が童子の道心をためすために羅刹(食人鬼)に変身し、雪山偈の前半二句を唱えると、それを聞いた童子は、残りの二句を聞くために進んでわが身を投げて羅刹に施したという。

帝釈天は童子の堅固な道心に感じ、これを空中に受けとめ、地上に安置して敬礼したと結ぶが、この本生譚は古来人口に膾炙し、日本文学にも多様に取りこまれてきた。」

と書かれています。

ある時にブッダのお弟子のラーダという比丘が、お釈迦さまに質問しました。

「いったい、無常とは、いかに心得たらよろしいのでありましょうか」と。

ブッダは答えました。

「ラーダよ、われらの肉体(色)は無常である。われらの感覚(受)は無常である。われらの表象(想)は無常である。われらの意志(行)は無常である。われらの意識(識)は無常である。」と。(『仏教百話』より)

肉体と感受と表象と意志と意識というのは、般若心経で説かれる五蘊であります。

その五蘊はみな無常であると説かれたのでした。

諸行は無常なのであり、生じては滅するものであります。

その中にあってお互いは生じては喜び、滅しては悲しむのであります。

真実の安楽は、生滅の滅し終わったところにこそあるのでしょうが、なかなかそうはいき難いものでもあります。

またある時にブッダは弟子達に語りかけました。

「比丘たちよ、なんじらは、これを、どう思うだろうか。

四つの大海の水と、なんじらが、ながいながい過去のいく生涯のなかで、 愛しい者との別離にそそいだ涙と、どちらが多いであろうか。」と。

ブッダのお弟子達は、親しい者との別れに涙を流し、無常の理を知っていましたので、

「大徳よ、わたしどもは、世尊のつねづね説きたもうた教えによって、わたしどもが、ながいながい過去のいく生涯において、愛しい者との別離のうえにそそいだ涙の量は、四つの大海の水をもってするも、なおその比ではないと心得ております。」と答えたのでした。

ブッダは

「よいかな、比丘たち、よいかな、比丘たち。なんじらは、わたしの説いた教えを、そのように理解しているか。

比丘たちよ、われらは、ながいながい過去のいく生涯において、いくたびか、わが父母の死にあったはずである。

そのたびに流した涙の量は、いくばくとも知れない。

また、われらは、それらのいく生涯において、いくたびとなく、わが子の死にあったであろう。

わが友の死にもあったであろう。

わが血縁のものの死にもあったにちがいない。

そのたびごとに、わたしどもが、愛しい者とのわかれの悲しみにそそいだ涙は、思うに、四つの大海の水をもってするも、なおその比にあらずとしなければならない。」(『仏教百話』より)

と説かれたのでした。

無常であると知って超然として涙も流さないのがよいわけではありません。

幾度も涙を流してきたというその営みこそが無常なのであります。

坂村真民先生の詩にも

  寂滅
母の柩に
火をつける
生き残るものの
このかなしみ
み仏のことば
知りつつも
涙あふるる

とあります。

無常と知りつつも涙あふれるのが真実であります。

 
横田南嶺

無常と知りつつも

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