若い人たちとの学び
よくあることなのですが、手紙を開封するときには、多少の勇気が要ります。
どんな手紙かなと思って開封しています。
先日も知らぬ名前の方からの手紙がございました。
「拝啓、突然お手紙を差し上げる失礼をお許しください」
という言葉から始まっています。
この一文だけでも丁寧な方だと分かります。
その方の長女が東邦大学看護学部の一年生なのだそうです。
東邦大学というと、毎年円覚寺で研修をなさってくれています。
これから看護師を目指す学生さんたちが、円覚寺に来て坐禅をし、私の話を聞いてくださっているのであります。
コロナ禍の前までは、一泊して行われていましたが、今年は日帰りで行われました。
看護師になられる方には、よく相田みつをさんの言葉を紹介しています。
いただいたお手紙によると、円覚寺で私の話を聞いて相田みつをさんの詩にこころ惹かれて、親子で相田みつを美術館に行かれたというのであります。
美術館では、館長の相田一人さんにもお目にかかることができたそうなのです。
拙い私の話がご縁になって相田みつをさんの言葉に惹かれ、美術館まで足を運んでくださるとはうれしいことであります。
そして更に有り難いことには、私の管長日記も毎日ご覧くださるようになったというのであります。
ご縁が広がることは実に有り難いことであります。
そんな喜びに浸っていた翌日は沖縄の琉球大学の医学部の学生を中心にして、将来医者になろうとしている若い方々の勉強会が円覚寺で行われて私が話をさせてもらいました。
その中心となっている琉球大学の学生さんというのは、なんと毎日私の管長日記を聞いてくださっているというのであります。
そしてわざわざ円覚寺まで訪ねてきてくれたことがあったのでした。
そこで話をするうちに、その方を中心に自主的に勉強会を行っているそうで、そこで話をして欲しいと頼まれたのでした。
お若い方に話をするのはうれしいことであります。
そうして二十名ほどの学生さんたちが集まってくれたのでした。
琉球大学の医学部の方や、島根大学の医学部の方や、東大医学部の方など実に全国から集まってくれました。
聴きたいテーマは何かというとやはり死についてでした。
そこで死生観について話をしました。
私が二歳の時に祖父が肺癌で亡くなり、そのお葬式が記憶の始まりであること、そこから死とは何か、死んでどこにゆくのかということに疑問を抱いて坐禅をするようになったこと、などから話を始めました。
「わき目をふらず 華をつみ集むる かかる人をば 死はともない去る まこと 睡りにおちたる 村をおしながす 暴流(おおみず)のごとく(法句經四七)」
というブッダの言葉を紹介して、人生の営みは花を摘み集めるように、財産や名誉や業績や何かを集める営みであり、死はそれら集めたものをすべておし流してしまうものだと話しました。
更に
「虚空(そら)にあるも 海にあるも はた 山間(やまはざ)の窟(あな)に入るも およそ この世に 死の力の およびえぬところはあらず(法句經一二八)」
というブッダの言葉を紹介して、どこに行こうとも死を避けることはできないことを話しました。
更に
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」という大田 南畝の言葉を紹介して、死には三人称の死、二人称の死、そして一人称の死があることを話しました。
三人称の死は、新聞記事や報道など事件があって誰かが亡くなったということを知るものです。
これはいちいち心を動かしていては身が持ちません。
多少心に感じるものはありますが、受け流して仕事に励むのです。
しかし二人称の死になると、そうはゆきません。
自分にとってたいせつな「あなた」の死であります。
これをどう受けとめるかということは大きな問題なのです。
そして大事なのは大田南畝の言葉にあるように一人称の死、つまり自分の死をどう受けとめるかなのであります。
朝比奈老師の仏心の話などをしたのでありました。
一時間の講話と、一時間の質疑応答という予定でしたが、質疑応答が活発になされて、一時間半に及びました。
皆さんとても熱心だったことにこちらが感動しました。
坐禅しかして来なかった私などとは違って、皆さん優秀な医学生なのですが、そんな私如き拙い話を熱心に聞いてくださる姿に感動しました。
質疑応答の中で第三人称の死であっても医師は患者の死に何も感じないようでは、心がないように思われるし、そうかといって患者の死に遭うたび毎に心を痛めていては持たないのでどうしたらいいのかという問いがありました。
これは私どもも似たところがあります。
葬儀を勤めますので、多くの死に立ち会います。
他人の死なのですが、何も感じずにただ形式的に行うだけでは心が通いません。
そうかといって、葬儀のたび毎に二人称の死のように受けとめていたのでは身が持ちません。
そこで、その葬儀のたび毎に悲しみの気持ちになりきるのですが、あとを残さないようにします。
悲しい時には悲しい思いになりきるのであります。
しかし共鳴してしまっては困ります。
共感はしても共鳴しないようにと教わったことがあります。
例えば溺れる人を助けるようなものだと話をしました。
同じ海に入ってゆかねば救えません。
そうかといって一緒に溺れてはなにもなりません。
同じ海に入っていながらも、救う力がなければなりません。
そのために普段から医学なら知識を学び技術を磨くのでしょう。我々ならば坐禅修行するのであります。
共感と共鳴の違いをどう見分けるのかという質問もいただきました。
これはやはり体得しかないのです。
これ以上入り込んでは危ないと感じる感性を磨いておくしかないのです。
そうした感性を磨くためには、普段から食事、睡眠、姿勢、呼吸、心を調えておくのですと伝えたのでありました。
若い人たちと学ぶことは楽しいものです。
そう感じるのはすでに老いたる証かもしれません。
横田南嶺