山が動く
あれはたしか、1989年の参議院選挙でした。
社会党が躍進して議席を倍に増やして、自民党が過半数割れをしたのでした。
その時に土井たか子さんが「山が動いた」と言ったのでした。
山が動くのかどうか、私どもの目には、普通は山は動くようには見えないのであります。
禅問答の問題の中に、富士山を三歩歩かせてみよというのがあります。
はたして富士山が歩くのかどうか、じっと坐禅して考えるのであります。
たしか、イスラム教の開祖に似たような話がありました。
どこに出典があるのか分かりませんが、こんな話だったと記憶しています。
ムハンマドは、山を動かそうと一心に祈ったけれども、山はびくともしません。
ムハンマドは「山がここへ来ないのなら、私が山の方へ行こう。」と歩いていったという話であります。
これもいい話だと思います。
富士山が歩くのかどうかは別として、山は活動しているのだと改めて思わされるのが火山の噴火であります。
歩くというのとは異なりますが、活動していることは確かなのであります。
先月桜島が噴火したというニュースが流れました。
山が活動しているのだと思いました。
もっとも富士山とていつ噴火するかは分からないのであります。
富士山は何度も噴火している活火山なのであります。
といっても、最近の大噴火が、宝永の大噴火なのであります。
西暦1707年ですから、もう三百年も前の話なのであります。
宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させたというのであります。
富士山の形も変わったのでありました。
白隠禅師は、お若い頃にこの宝永の大噴火に遭っています。
白隠禅師の年譜に書かれています。
芳澤勝弘先生の『白隠禅師年譜』(禅文化研究所発行)から引用させてもらいます。
宝永四年白隠禅師二十三歳の時です。
白隠禅師は、富士山に近い沼津市原の松蔭寺にいたのでした。
「この冬、富士山の内輪から火が噴き出して山の中心部が数日にわたって焼けた。
山河は音をたてて揺れ動き、(噴煙で)日も月も隠れた。
そのうちに、火の勢いは東の中腹に移って、そこから(溶岩が)流れ出した。
さながら無底の黒火坑が現われたようである。
そして噴煙があがって万畳の雲となり、焔がほとばしり百千の雷が閃いた。砂石が大雨のように降り、大地は震動して壊れんばかりであった。
火口の方面にあった村落では、降る砂石のために活き埋めとなった者が幾千人も出た。
この時、松蔭寺のあたりも大地が大揺れし、建物は音をたてて震動した。 兄弟子と手伝い方の童僕たちは、みな走って、一緒に郊外に逃げてうずくまっていた。しかし、慧鶴(白隠禅師のこと)だけは、ひとり本堂で兀然と坐禅をした。
そして心に誓った、「もし自分に見性することのできる運勢があるならば、諸聖が必ずやこの災害から守ってくれるであろう。もしさもなくば、壊れる家の下敷きになって死のうとままよ」と。
そこに生家の俗兄(古関)がやって来て、「危険が目の前にあるというのに、おまえは何で悠々とこんなことをしておるのか」と言う。
慧鶴は「わが命は天に預けたから畏れることはない」と答えた。
俗兄は再三にわたって説得したが、慧鶴は堅く誓って起たず、なおも誓願をたてて、この嶮難のさなかで工夫を試みた。
やがて鳴動がおさまった。慧鶴は端然として、一つも損傷するところはなかった。」
というのであります。
若い日の白隠禅師の一途な求道心がしのばれる話であります。
またいつ富士山が噴火するかは分からないのであります。
もっとも山が動くかというと、この地球自体が動いているのであります。
地球は自ら回転しています。
たしか時速千五百から千七百キロで回転しているのです。
新幹線の五倍以上も早く回っているのです。
さらに太陽のまわりをまわっているので、公転しているのです。
それは確か秒速二十八キロから三十キロというのです。
それでも重力のおかげで振り落とされずにいるのであります。
山がじっと動かないように見えて、そのように思いこんでいますが、山そのものは、動き続けているとも言えましょう。
東山水上行という禅語があります。
雲門禅師の言葉です。
諸々の仏さまがどこから生まれてきたかと問われて答えた言葉です。
山が水の上を行くのですから、常識を越えています。
思慮分別を超えた世界だといって、説明するのであります。
青山俊董老師の『さずかりの人生』の中には、
青山常運歩という言葉が出てきています。
青山老師は、その本の中で、
「道元禅師は『正法眼蔵』「山水経」の中で宋代の高僧、芙蓉道楷禅師の「青山常運歩」という言葉を引用して説示しておられる。
それによると「青山」は不動のもの、時と処を越えて変わらない永遠の真理といってよく、それが具体的には無限の働きとなってすべての上に現成してくる。
時々刻々に変化しつつ。その働きの方を「常運歩」と表現されたと頂きたい。」
と書かれています。
天地自然は、大いなるはたらきを常に行い続けています。
地球の公転、自転もそうですし、太陽の光、お月様の満ち欠け、すべておおいなるはたらきの中に、お互いの小さな命が生かされているのであります。
山も私たちも大きなはたらきの中に生かされ通しなのであります。
青山老師の『般若心経ものがたり』のなかで、米沢英雄先生の言葉として、
「吹けば飛ぶようなこのちっちゃな生命を、天地いっぱい、宇宙いっぱいが総がかりで生かしてくれている」と表現されています。
そんな風に味わうと山も私たちも大きなはたらきの中で動いていると感じられるのではないかと思います。
横田南嶺