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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.17
今日の言葉

自然

天然ということについて昨日話をしましたので、今日は自然について学んでみます。

自然という言葉をいつものように『広辞苑』で調べてみると、
たくさんの説明があるのですが、大きく分けて三つの意味が書かれています。

第一には、

「(ジネンとも)おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。」

をいうのであります。

「ひとりでに」という意味に使われることもあります。

それから二番目には

(physis ギリシア・natura ラテン・nature イギリス・ フランス)人工・人為によりなったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからあるいは超越的なものによる生成・展開によって成りいでた状態。超自然や神の恩寵に対していう場合もある。」

という意味があります。

こちらは西洋のネイチャーの訳語しての自然であります。

そのほかにもたくさん意味がありますが省略します。

そして三番目には「人の力では予測できないこと」という意味があるのです。

『広辞苑』の第一の意味のところに「じねん」ともと書かれていましたが、「じねん」も載っています。

「じねん」とは「おのずからそうあること。本来そうであること。ひとりでに」という意味であります。

仏教では「自然法爾」という言葉を用います。

「自然法爾」は『広辞苑』によると、

「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。

親鸞はこれを念仏信仰にあてはめ、阿弥陀仏の力によっておのずから往生が成り立つこととした。」と説明されています。

「自然」ということを考えると、やはり鈴木大拙先生を思います。

大拙先生に『禅のつれづれ』という著書があります。

この本は、もともと一九六六年に『大拙つれづれ草』という題で発行された本でした。

私が中学生から高校生の頃に愛読した本でした。

ただいまは『禅のつれづれ』という題で、河出書房新社から出版されていて読むことができます。

大拙先生は、この本の中で「全世界の人間の自覚を催進させ、またその平和と幸福とを将来するように」するには、

「一口にいうと「自然」にかえれ」と唱えられています。

「「自然」の再認識である」というのです。

「日本的なるものを通じて「自然」の何ものたるかを「自覚」するのである」と説かれています。

その自然もわざわざカギ括弧をつけて書かれています。

なぜカギ括弧をつけたかというと大拙先生は、

「西洋語のネーチュアまたはラ・ナトュールの義に使われておるのに、対抗させて使いたいから」だというのです。

大拙先生は

「近来といっても、それは今からほとんど百年前に、西洋の文化、西洋の思想のように、わが国に流れこんで来たとき、ネーチュアに対する適当な言葉がないので、やたらに古典をさがした結果「自然」を最もしかるべしとして、採用したのである。

これがわれらをして、東洋的思想の中で最も大切で根本的なものを、忘れ去らしめた事由となったのである。」

と嘆かれています。

大拙先生は、

「西洋思想のネーチュアと、東洋思想の中枢を作り上げている「自然」とは、似たところもあるが、大いに同じからざるものがある」というのであります。

大拙先生はそこから東洋の自然について、

「自然」のはじめて用いられたのは、老子の道徳経で「道は自然に法とる」とある。この「自然」は「自から然る」の義で、仏教者のいう「自然法爾」である。

他からなんらの拘束を受けず、自分本具のものを、そのままにしておく、あるいはそのままで働くの義である。

松は松のごとく、竹は竹のごとくで、松と竹と、各自にその法位に住するの義である。」

と指摘されています。

そこから更に「自然」の本質について語っています。

少々長いのですが、そのまま引用させてもらいます。

「西洋のネーチュアには「自然」の義は全くないといってよい。

ネーチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。

「自然」には相対性はない、また客観的でない。

むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。

自他を離れた自体的主体的なるもの、これを「自然」というのである。

それで道は自然に法(のっ)とりて存するというのである。

西洋のネーチュアは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。

東洋の「自然」は「人」をいれておる。

離れるのは「人」の方からである。

「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。

それで自分をまっとうせんとするには「自然」に帰るより外ない。

帰るというのは元の一になるというの義である。

「自然」の自は他と対峙の自ではない、自他の対峙を超克した自である。

主客相対の世界での「自然」でない。

そこに東洋の道がある。この道を再認識するのが、日本人にとりては、日本の再発見である。

「『自然』にかえれ!」である。」

と力強く説かれています。

西洋のネイチャーは人と相対する自然であるというのに対して、東洋の自然は、「人」をその中に含んでいるというのです。

もし自然から離れるとしたら、それは人の方からというのです。

これは自我意識や、自分中心、人間中心の考えによって、自然から離れてゆくということであります。

もう少し引用しますと、

「西洋のネーチュアは、いつも人間に対蹠して考えられる。

それで両者の間には相剋的性格が出る。

われ克たざれば、彼のために敗られるということになっている。

それゆえ、西洋では自然(ネーチュア)を征服するなどという。

東洋の「自然」は人間に征服せられるものでない。

人間は「自然」のもとに所在するもので、もしそれにそむくことがあれば、それは人間から仕かけたので、結局敗れるのは人間の方にある。

西洋のネーチュアの二元的なるに対して、東洋の「自然」は一元的包摂性である。「自然」に打ち克つなどいうことは、東洋には無い考えである。

「自然」には随順すること。

もしそれに克つように見えることがあっても、その実は、それに随順するにほかならぬのである。

自己を無くして「自然」と随うとき、無き自己がじきに「自然」そのものとなる・」と説かれています。

そして更に

「日本人の再発見的能力は「自然」の上に向けられるべきだ。

このような「自然」の認識が、日本人の間に、昔から無意識にあったと、自分は信ずる。

われらはいずれも「自然」の恵みによって、その日その日を送るのである。

明白に意識の表面に出て来なくても、冥々のうちに、この感覚を、われら日本人はいずれももっているのである。

「おかげさまで」という言葉はすこぶる含蓄に富んでいる。」

というのであります。

実に味わいのある言葉であります。

「われわれはいずれも「自然」の恵みによって、その日その日を送るのである」という一言は肝に銘ずべきであります。

そんな心を日本人は「おかげさまで」と表現してきたのです。

 
横田南嶺

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