一分間の法話
お笑いの方だそうです。お笑いのことについては詳しくないのですが、この方が般若心経の本を出されたことがあって、私も読んでいました。
『えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経』という本です。
般若心経をわかりやすく説くということは難しいものです。
「えてこでもわかる」とはどういうことか、興味を持って読んだのでした。
「えてこ」というのはお猿さんのことです。
率直に申し上げますと、やはり「えてこ」さんには難しいだろうなと思いましたがが、かなりわかりやすく説かれています。
あまり上品でない表現もあるので、抵抗を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、なかなか本質を突いている言葉もございます。
次の言葉などには、心惹かれました。
引用します。
「なんで自分の存在にこだわるんや、自分の考えも体もひとりだけの所有物やと思わんと、自分も他人も草木もゴミも、全体が液状にドロドロしてて、ただ偶然、ドロドロしてる中のここからここまでの部分が自分となって現れてるだけやねんで、そしたら全部は繋がってて、自分だけの所有物なんか何もなく、すべてはみんなの所有物になる、そしたら他人に与えることも、何ら嫌なことではない、それで「慈悲」の心が生まれるんやで、という感じだと思います。」
というのです。
自分や自分の物というのはない、すべてはつながりあっている、その中で一部分だけを切り取って自分だ、自分の物だと思いこんでいるに過ぎないというのは、仏教で説く大事な教えであります。
この笑い飯哲夫さんとラジオで対談することになりました。
「仏教伝道協会 presents サタデー☆ナイト仏教」という企画だそうです。
笑い飯哲夫さんにお目にかかるのが楽しみであります。
収録は一日で済ますのですが、十五分ずつ五回にわたって放送されるらしいのです。
仏教伝道協会を通じての御依頼なので承ったのです。
五回放送するなかで、それぞれ一分間の法話をして欲しいというのであります。
一分の法話というのは難しいものです。
これは初めてであります。
ふだん話をしていることを簡単に原稿にしてみました。
このようなものです。
主体性を持つ
人間は、紙切れ一枚でも持たされて持っていると重たく感じるものです。ところがこれが好きな人の為に持つ荷物となると、どんなに重たい荷物でも軽々と持っていけるのであります。
やらされてやることは苦痛ですが、こちらが主体性をもってやってゆくことは、苦痛にはなりません。どんなところにいても、どんな時であってもその場その場、その時その時、自らが主体性を持って生きることが大切であります。
なんの仕事であろうとも、やるならば精一杯喜んで主体性を持って勤めましょう。
腰骨を立てる
人間が主体性をもって生きようと思うならば、まず腰骨を立てることです。腰が引けていたり、腰が曲がっていては主体性も出てきにくいものです。
体と心とは密接につながっていますので、心を正そうと思うならばまずは姿勢からです。人間は腰を立てることによって主体的に物を考えて行動するようになります。
教育者の森信三先生は、「腰骨を立てることによって、われわれ人間は、自らの主体性を確立しうると共に、さらにその持続的実践力の根源たる意志力を鍛錬しうるのである。」仰っています。まずは腰骨を立てることです。腰骨を立てることによって、下腹丹田が充実します。その丹田から気力がわいてくるものです。
呼吸を調える
体と心というのは密接なつながりをもっていますが、この体と心とを結びつけるのが呼吸であります。お互い心が乱れている時は、呼吸も乱れています。逆に呼吸を調えることによって心も調ってきます。
そこで心を静かに調えるには、呼吸を静かに調えることなのです。呼吸というのは吐いて吸うことです。まずはお互いが胸にかかえている思いや煩いを全部吐き出してしまうつもりで、息を吐く、吐き出してしまえば、自然と鼻から新鮮な空気が入ってきます。
吐く息をゆったりと長い目に吐いて吸う息は自然に入ってくるのにまかせます。この呼吸の様子を静かに見つめていると、それだけで心が静かに穏やかになってまいります。
ほほえみの種をまこう
心が静かに落ち着いてくると、自然とほほえみがわいてきます。禅というのは、お釈迦さまがある時に一輪の花を取り上げて、皆に示し、それをご覧になったお弟子の迦葉尊者がにっこりほほえんだことが起源になっています。花を見てほほえむのであります。
静かにほほえんだ状態でいれば、人間は一番よろしいかと思います。仏像を拝んでいると、静かにほほえんでいらっしゃることが多いのです。ほほえみというのは、いつでもどこでも出来るものです。なにか自分に都合のよいことがあった時だけではなく、あらゆる時にあらゆる人にほほえむことができると素晴らしいものです。
ほほえむことによって心が明るくなります。明るくなれば、自分の進むべき道が自然と見えてくるものであります。
よいとこころを見つけよう
いつもほほえむように気をつけていても、いろんなことが起こるのがお互いの人生であります。
お互いが生きていく上で一番たいへんなのはやはり人間関係であります。人間と人間の関係ほど難しいものはありません。禅の修行でもたいへんのように思われますが、足の痛さや暑さ寒さに負けて修行をやめることはほとんどありませんが、人間関係がこじれると続けられなくなってしまいます。
鎌研ぎの名人の話を聞いたことがあります。その鎌研ぎの名人たるゆえんは、たとえどんなヘタな人が研いだ鎌であっても、自分には及ばない点を一点見つけることができるというのであります。
どんな人にあっても自分には及ばないところみつけることが大切です。人の欠点にはすぐ目に付くものです。どんな人にも自分にも及ばないところがあるはず。そう思って人に接していると人間関係が変わってくるものです。
というものです。
主体性を持って、腰を立てて、息を調えて、にっこりほほえんで、どんな人にも自分にはないところを見つけてゆく、特に最後のところはどんな人にも仏様の心が具わっていると拝むことに通じるのです。
こんなふうに禅の教えをまとめてつもりなのであります。
横田南嶺