寄り添うこととは
円覚寺では、三が日の早朝に大般若経の転読を行って、一年の無事をお祈りします。
もちろんのこと、ただいまの感染症が早く収束してくれることもお祈りします。
祈るということについて、いろんな側面があると思います。
祈ったって、何も変わらないという方もいらっしゃるかもしれません。
たしかに感染症のことなどについては、昔は原因も何も分からなかったのでただ祈ったのでありましょうが、今日のようにその原因や、治療法なども分かってくると、祈るよりもそちらの方が大切のように思われます。
もちろんのこと、感染症に対する正しい知識を得るように勤めて、それによって予防を怠らないことは最も大切なことであります。
しかし、それでもやはり、この感染症にしてもまだすべてのことが分かっているわけではありませんし、人知の及ばないこともございます。
やはり謙虚に祈りを捧げることは大切であります。
そしてまた祈るということは、まず祈る人の心を穏やかにしてくれるものです。
一心に祈ることは、心の平静や安寧をもたらします。
神社仏閣にお参りする一番の功徳は、お祈りする本人が穏やかな心になることだと私は思っています。
三が日は、そうして早朝の祈祷が終わった後、ひたすら来客の応対に追われて終わります。
やはりまだ感染症のことが気になる方もいらっしゃるので、例年よりは少ないものの、大勢の方が年賀にお越しくださいます。
年賀のお客の応対ですので、こちらはニコニコして挨拶していればいいのです。
ですから、これは管長の仕事の中では、気楽なことなのですが、ある人が、「大勢の人に会うのはたいへんでしょう」といってくださいましたが、たしかにこれはこれで結構大変な一面もあります。
しかしながら、なんといってもお越しいただけるのは何より有り難いことであります。
本日四日から修行僧たちは、そうして祈祷した新年のお札をもって、普段道場がお世話になっている信者さんたちのお宅に年始のご挨拶に回るのであります。
私はただいま東京の龍雲院の住職も兼ねていますの、四日に上京して、お寺のご本尊にお参りするのであります。
さて、新年早々、「寄り添う」ということについて考えさせられました。
それはいつも滋賀県の高校教師をなさっている方から『虹天』という冊子を送ってもらっているのですが、この一月号の巻頭に、その先生の書かれた文章について深く考えさせられているのであります。
文章は、
「『寄り添う』という言葉があります。皆さんはこの言葉からどんなことを思い出されますか?」
という一文から始まっています。
この頃は、この「寄り添う」という言葉をよく耳にします。
大事なことだろうと思っています。
このことについて、その高校の先生は、初めて担任をした時の話を書かれているのです。
この話に心打たれました。
先生は、「いわゆる問題行動の多い学校で大変な毎日」だったと書かれています。
若い先生が、いきなりうまくできるはずもありません。
しかし、学年主任の先生からはいつも厳しく指導されていたらしいのです。
ある日のこと、授業中に態度の悪い女生徒を強く叱ったのでした。
その生徒は後ろのロッカーを蹴飛ばして教室から出てゆきました。
その晩のこと、その生徒の親から電話がかかってきたそうです。
その生徒が、ロッカーを蹴飛ばしたときに右足の中指を骨折していたというのです。
先生は、「初めて出会う強烈なモンスターペアレント」と書かれています。
四十分電話が続き「今からすぐうちに来い」というのでした。
先生は、学年主任の先生にお願いして夜遅くに二人でその方の家を訪ねました。
そのあとのことを先生は、「私は足のふるえるまま応接室に通され、そこからは地獄の二時間でした」と書かれています。
「家の外まで響く怒号、最後はお茶をかけられ、私も学年主任もズボンがびしょびしょになりました」というのです。
たいへんなことがあるのだなと思いました。
学校の先生のご苦労を思います。
しかし、このあとの話が素晴らしいのです。ご紹介します。
ようやくその家から解放されて、二人で学校へ帰る途中、何度も学年主任にあやまる先生に、学年主任の先生は、
「ええか、長い間教員をやっていたら一度くらいはこんな目にあうときもあるからな」
と言ってくれたというのです。
「あの子の方が悪いのに、叱ってはいけなのですか」という先生に、主任は、こう言いました。
「そんなことない、でもな、あの親父さんにどんな育てられ方をしてきたか、さっきので少し想像できたやろ、あの子はかわいそうなんやで、明日あの子と話すときは、そんな見方で話してみい」
と。
学校に帰ったのが午後十一時、「二人でびしょぬれやなあ、ははっ。また明日」と笑みを浮かべながら主任の先生は帰っていたという話です。
学校の先生のご苦労を思うと共に、この主任の先生の心の広さ、爽やかなことに感銘を受けます。
読んでいて私も感動しました。
その最後に先生は、こう書かれていました。
『「寄り添うことが大事だよ」とよく言われます。
では、あの先生は私に寄り添ったのでしょうか。
いや違います。
先生ならきっとこう言うでしょう。
「当たり前のことをしただけだ」と。
「寄り添う」というのは意図的にできることではなく、結果的に「寄り添ってくれてありがとう」と思う人がいるだけなのかも知れません。
というのであります。
「それでもただそばにいるだけで、誰かを救えることがあるのかもしれません。 」
と結ばれていました。
もちろんのこと、寄り添ってあげようと思うことも、寄り添ってもらえることも有り難いことであり、尊いことです。
大きな力になります。
しかし、寄り添ってあげる、寄り添ってもらうというだけでは、いつしか苦痛になることもあるでしょう。
寄り添うが重荷になることもあるでしょう。
仏教では「四無量心」ということを説きます。
慈悲喜捨という四つの心です。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「四つのはかりしれない利他の心。慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りに導くこと。
<慈>とは生けるものに楽を与えること、
<悲>とは苦を抜くこと、
<喜>とは他者の楽をねたまないこと、
<捨>とは好き嫌いによって差別しないことである。」
とあります。
捨というのは「心の平静、心が平等で苦楽に傾かないこと」です。
何かをしてあげたいという思いも、寄り添ってあげようという思いもなく、何もとらわれずにサラッとした心で、「当たり前のことをしただけ」というのが一番尊くて、そして救いになるのだと思いました。
とらわれない心、平静な心で、サラリとしていたいものです。
横田南嶺