喜んでもらう喜び
大般若経の転読を三日間行います。
そうして祈祷したお札を、普段お世話になっている信者さんのお宅に届けるのが四日から始まります。
私も三が日は、早朝の大般若経の転読を終えると、日中は年賀のお客の応対に追われています。
三が日はそうして過ごしています。
忘れてならないのは、まだ学校に通っているお子さんが見えた時には、お年玉を差し上げることです。
せっかくの休みを楽しんでいたいのに、わざわざ親に連れられて管長のところに来てくれるのですから、何かを差し上げたいものです。
今年は、お年玉とグリコのお菓子を用意しました。
なぜグリコなのかというと、別に宣伝を頼まれたわけではありません。
年末にとあるお寺の教化誌に、江崎グリコの話が載っていて、それを読んで感銘を受けたのでした。
創業者の江崎利一さんの話であります。
江崎さんは、薬屋のお生まれですが、教科書も買えないように貧しかったそうです。
親の後を継いで、薬の行商をしていて、有明海の近くでカキの干し身を作るのに、カキの煮汁を捨てているのを見ました。
カキの煮汁にも何か栄養があるのではないかと思って、大学で調べてもらったところ、多くのグリコーゲンが含まれていると分かりました。
これを何かに利用したいと思っていたところ、江崎さんのお子さんが病気になって医者もサジを投げるほどに衰弱してしまいました。
食事も喉を通らないわが子に、江崎さんは、箸の先にカキエキスをつけてなめさせました。
そうやって少しずつ与えて、無事に回復したのでした。
そこで江崎さんは、グリコーゲンで子供が元気になることをしようと思って、キャラメルにカキエキスを入れて売り出したのでした。
これがグリコキャラメルの始まりだそうです。
素晴らしい話だなと思って、グリコのお菓子を買って子どもたちに用意したのでした。
増谷文雄先生の『仏教百話』に慈悲について次の言葉があります。
「わが子は愛しい。わが親はいとしい。
兄弟が悲しい目にあうと、わが身も惨然として涙を流す。
その慈しみと悲しみの心を、ひろく人間のうえに、さらに、生きとし生けるもののうえに拡げてゆくとき、それが慈悲というものである。」
というものです。
わが子が愛しい、わが身内を愛するという思いをすべての人に広げてゆくのが慈悲だというのであります。
増谷先生は、
「だが、それを拡大してゆこうとすると、 さまざまな煩悩がそれを妨げる。利己心もそれである。貪りの心もそれである。
怒りや悪意もそれを妨げる。党派心もそれを妨げ、せまい愛国心もそれを妨げる。それらの妨げるものを一つずつ焼きつくし、きたえにきたえて、はじめてかぎりなき慈悲がなる。」
と説かれます。
この言葉は、ある時のお釈迦様のお言葉の解説なのです。
お釈迦様があるときに、きたえにきたえた一振りの刀は、折り曲げたりねじりあわせたりできはしないのと同じように、
「もし、なんじらが、慈悲のこころを修め、それをたびたび繰りかえして、すっかり身につけてしまったならば、それを土台として立ち、そこに安住することをえて、もはや、なにものをも恐れることなきにいたるであろう。たとい鬼神があらわれて、なんじらの心をかき乱そうと思っても、けっして思うようにすることはできないであろう。」
と仰せになったのでした。
慈悲を身につけるというのは容易ではないのです。
年末に書架の整理をしていて、松原泰道先生の『日本人への遺言』という本を見つけて読み返していました。
松原泰道先生が百一歳でお亡くなりになる年に出版された本です。
松原先生が、ノブさんというマッサージ師の方の話を書いています。
この話は私は直接何度もうかがったのですが、聞くたびに胸を打つ話なのです。
ノブさんというのは十五歳の時に失明してしまってマッサージをして暮らしているのでした。
松原先生はこのように書かれています。
「ある日、ノブさんが得意そうに言うんです。
「外灯をつけたんです」と。
戦後早々に、マッサージ師の稼ぎで電気を引くといったら大変なことです。
彼女は目が見えないわけですから、なぜそんな無駄なことをしたのかと聞いたところ、こう答えました。
「家の前は細い路地でバス通りにつながる近道なので、通る人がとても多いのです。狭くて暗い道で傘をさすこともできなく、雨の日はぬかるみになってしまいます。
私はこの通り目が見えず暗闇でも大丈夫。家の中より外に電気があったほうが、そこを通る人が歩きやすいでしょう。そこへ外灯をつけたらね、路地を通る人が大きな声で『おノブさん、ありがとう』と礼を言ってくれるんです。『助かるよ』って。私、うれしいわ」って。
それを聞いて私は胸が詰まりました。自分が逆境にありながら、人のためにできることを考え、実行していける彼女は素晴らしいと思ったのです。」
と書かれています。
自分のことよりも人のことを思う慈悲の心であります。
更に松原先生は、その本の別の章で、
「他に幸福を与えることで相手は喜びます。
するとその人はまた誰かに幸福を与えます。
それが巡り巡って、いつしかあなたの幸せになってくる。
人の幸せは、自分の幸せと別物ではありません。確実に繋がっているのです。
仏教的に言うならば、自分と他人を分けて考えるのではなく、「あなたは私」という絶対一人称で捉えてみてください。あなたの悲しみは私の悲しみ、あなたの喜びは私の喜び。
そう考えることができるようになったとき、あなたは自分自身が幸せであることを知るでしょう。」
というのであります。
慈悲を身につけるのは難しいことですが、何か人にしてあげたいという気持ち、喜んでもらってうれしいという思いを大切にしたいものです。
横田南嶺