集いの力
せいろで餅米を蒸して、臼と杵で餅を搗くということなど、今の時代には珍しいことであります。
おそらくは、かつては日本の家ではあちらこちらで餅つきの風景が見られていたのであろうと思います。
お正月のお供えの鏡餅、そして三が日の雑煮でいただく餅をみな搗いていたのだと察します。
かつておせち料理も家庭で作っていたのが、この頃購入する人が増えてきたように、だんだんと餅は搗かなくても、お店で購入するようになっていったのでありましょう。
毎年のことながら、準備も片付けも手間がかかりますし、搗くのも重労働なのです。
たいへんなことだなと思ってやってきましたが、この頃ふと思うのは、今の時代に、かまどで火をおこして、せいろで餅米を蒸して、臼と杵で餅を搗くなどというのことは、考えようによっては最高のぜいたくのようだということです。
そう思えば、有り難いことだと感謝するのであります。
私などは、大学を卒業してからというもの、今日に至るまでずっと修行道場で過ごしてきていますので、餅つきも三十数年続けていることになります。
不思議なもので、年に一度のことですが、体がちゃんと覚えているものです。
暮れに餅を搗くと、今年一年の体調もよく分かるものであります。
若い修行僧たちと暮らしてゆくには、体力が大事なので、体力が衰えないようにとあれこれ工夫しています。
そのせいかどうにか現状維持はできていると感じています。
餅つきをしていて、まだ体が疲労してしまうことはないのであります。
近年は、もっぱら餅つきの手返しというのを担当しています。
これが簡単のように見えて、けっこう難しいものです。
上手に餅をかえしながら、まんべんなく搗いてもらうようにします。
この手加減によって、餅の出来具合が大きく変わってきます。
これだけは長年やっている経験と勘で行いますので、若い者には負けないところです。
コロナ禍の前までは、大勢の方が集まって楽しく餅を搗いていました。
大勢の方といっても円覚寺の山内の和尚様のご家族や、ご近所でふだんなにかと僧堂がお世話になっている方に限られています。
多くの方にとっては、やはり餅を搗くところがほぼ無くなってしまったので、餅つきじたいが珍しいことであるのでしょう。
また若い修行僧達が、力の限り餅を搗いている姿も、尊いものですし、見るだけでも力をいただくような気がします。
参加者の中でも途中で搗きたい人がいれば杵をもって搗いてもらいます。
それを写真で撮ったりするのですから、それは楽しいものでありましょう。
ただご参加下さると、御礼の気持ちもこめて少しばかりの餅を差し上げることになりますので、修行道場で必要な餅以外にもたくさんの餅を搗くことになっていました。
これはこれで楽しいものですし、修行しているといっても、円覚寺の山内の和尚様たちやご近所の方々のおかげでありますので、ご恩返しのひとつでもあります。
スポーツの観戦と同じようなもので、やっている方も観客がいると力が入る一面もございます。
それが、昨年の餅つきといい、今年もまたコロナ禍になって、外部の方にお入りいただくのは遠慮していただいて、修行道場の修行僧のみで餅つきを行いました。
そうしてみて気がついたの、餅を搗く量が半分になっていたのでした。
ということは半分は皆さまに差し上げていたことになります。
今まで半分は餅屋になっていたのだと気がついたのでした。
外部の方がいないということは、所謂無観客ですから、盛り上がらないかというと決してそうではなく、若い修行僧達はそれなりにかけ声を掛け合ったり、搗きたての餅を食べたり楽しそうにしていたのでした。
お客が多いと食べるにしてもお客様に食べていただくことが主になって、自分たちがゆっくり食べることなどできにくかったのでした。
そんな次第で、今年も昨年同様に修行道場の中で、ひっそりとそれでいて楽しく餅を搗いていたのでありました。
せいろで蒸す都合上、途中で時間調整をすることがありますので、そんな合間に搗きたての餅を皆で食べるのですが、はじめて餅を搗く者などは、おいしい、おいしいと喜んでいたのでした。
今年の春に修行道場に入ってきた者にとっては初めての餅つきなのであります。
もっとも聞いてみると、幼稚園や保育園の時に経験したというのですが、実際には初めてといっていいでしょう。
今年は寒くなっていたのですが、汗を流して搗いていました。
搗いている人のそばで、ずっと餅をかえしていますと、修行僧それぞれの力や息づかいがよく分かります。
初めての人でもそれなりに力があって搗ける者もおりますが、修行道場に数年いるとやはり腰も入って、無駄な力が入らないようになって、あまり息もあがらずにつけるようになります。
修行道場で、薪割りや畑仕事などを行っていることによって、体ができてゆくのでありましょう。
薪割りなども今の時代には珍しいこととなりました。
腰がきまってこないと薪も割れませんし、餅も搗けないものです。
それは坐禅の姿勢にもつながります。
鍬で畑を耕す、薪を割る、餅を搗く、こうした作業を通じて坐禅をする腰が決まってくるのであります。
今の時代ですといろんな身体技法もあって、それも学ぶには学んでいますが、こうした伝統の暮らしによって培われるものも大切なことであります。
また餅を搗いて例年つくづく思うのは、みんなの力を合わせるということであります。
一人や二人でできることではありません。
みんなが集まって力を合わせてはじめて搗けるものです。
餅をかえしていても、力の強いもの、力の弱いものがあるのがよく分かります。
力の弱いものが搗いた後には、少し力の強い者に搗いてもらって仕上げるように心がけます。
いろんな力が合わさって丸い餅になるのです。
餅を搗いている途中で、修行僧達に質問しました。
こうして搗いた餅と機械で搗いた餅とではどちらがおいしいだろうかと。
実際に今苦労して搗いている者にとっては、こうして搗いた餅の方がおいしいと感じるものです。
しかし、それだけは不十分です。
どうして、なぜおいしいのかと問いました。
みんなで搗いたからというのは勿論のことですが、やはり均一ではないということでしょう。
機械で搗けば、均等な力で、決まった時間をきっちりと搗いてくれるでしょう。
ですから出来具合に大差がないと思います。
しかし、こうして皆で搗くと、バラバラなのです。
そのぞれの力もバラバラです。それによって搗く時間も早く搗ける場合と時間が少々かかる時とバラバラなのです。
この均一出ないところに、人間がおいしく感じる要因があるのではないかと、私は皆に言ったのでした。
初めての人も、長年やっている者も、力の強い者も、力の弱い者も、それぞれがそれぞれの力を合わせて餅にするところに、良さがあるのだと思います。
三帰依文の中に
僧とは集いの力、隔て無きの尊さなりと一文があります。
一箇の餅には、新しい者も古参の者も、力強い者も弱い者も皆隔てなく力を合わせて搗くので尊いのであります。
和合ということは、均一にすることではありません。
それぞれ違っていて、それらが合わさってひとつになってくのであります。
そんなさまざまな力がひとつになって丸い餅になるというのが有り難いところであります。
集いの力を感じる餅つきなのであります。
横田南嶺