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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.12.12
今日の言葉

下駄の恩

平四郎というと、禅門では、白隠禅師のもとに参禅した山梨平四郎と、のちに瑞巌寺となった円福寺の開山法心禅師、真壁の平四郎とがございます。

真壁の平四郎について調べてみました。

この真壁の平四郎については、資料が少なくよく分からないのですが、『法身覚了無一物 法心禅師真壁平四郎の生涯』という鈴木常光氏の著書があって、詳しく調べられています。

一九六九年の出版で、古い書物であります。

私も何十年も前に古本屋で入手して書架に入れていました。

平四郎は、文治五年一一八九年の生まれです。

常陸国の真壁のお生まれであります。

そこで真壁の平四郎と呼ばれます。

ただいまは茨城県桜川市となっています。

建暦元年一二一二年に平四郎は真壁城主真壁安芸守友幹の下僕となりました。

平四郎二十三歳の時であります。

平四郎が真壁氏にお仕えして二年後の健保元年一二一三年に友幹の長男が生まれました。

この子が後に真壁時幹となります。

寛喜二年一二三〇年、事件が起こりました。

寛喜元年には、時幹は真壁の地頭職についていました。

お城の東の山裾にある別邸で、雪見の宴が催されました。

雪見の宴も無事に終わって、若殿がお帰りになる時のことです。

玄関のしき台に揃えられた木履に足をかけた若殿が、突然大きな声をあげました。
「下郎、これへ参れ」

驚いた平四郎は若殿の足元に跪きました。

若殿は、「無礼者、このはきものはなんぞ、尻にしいていたであろう」と言って、
顔をあげて弁解しようとする平四郎の眼前に、時幹がかけあげた足から、木履が飛んできました。

その木履は平四郎の眉間に当たり、眉間は割れて、傷口から血が迸り、飛び散った血は白雪を真っ赤に染めました。

若殿は驚く家臣たちには目もくれずに、雪の中を素足のまま館に帰って行ったのでした。

平四郎はぼう然として立ち尽くしていました。

もう四十二歳にもなり、二十年近くお殿様に仕えてきたのでした。

若殿もお勤めするようになって二年後に誕生されて、ずっと見守ってきたのでした。
若殿の為を思って、雪の日に素足のまま木履を履くと冷たかろうとおもって少しでも温めようと、玄関脇で待つ間ふところに入れて温めておいたのでした。

それを尻に敷いていたと誤解されて、木履で眉間を割られたのでした。

先代からずっとお仕えしたきた心は折れてしまいました。

翌る年平四郎四十三歳のとき、真壁城を抜け出して、姿を消してしまいました。

平四郎は高野山に上ったとされています。

そこで出家して性西法心と命名されました。

法心は更に建仁寺でも修行されました。

字の読めない法心は人一倍苦労したようであります。

くじけそうになるときには、主君に打たれた木履を取りだしては自分の心を戒めたのでした。

法心は嘉禎二年一二三六年に宋の国にわたります。

禅宗の本場であります。数え年四十八歳です。

帰国したのが、寛元二年一二四四年ですから足かけ九年宋にあって修行されました。五十六歳であります。

宋の国では、無準禅師に師事されました。

円覚寺の開山仏光国師の師でもあります。

日本からは後に東福寺の開山となる聖一国師も参じた方であります。

無準禅師は、法心に対して丸の中に丁の字を書いて公案として与えました。

この丁の一字を工夫せよとのことです。

お尻の肉がただれて化膿するまでに坐ってこの一字に取り組んで、とうとう悟りを開いて、無準禅師から認められたのでした。

帰国した後のことは詳らかではありません。

とにかく世に出ようという気持ちなどは無かったようでした。

そうして世の中から隠れている間に、北条時頼の推挙によって、奥州松島の延福寺に入ることになるのです。

延福寺を天台宗から臨済宗へと変えたのでした。

円福寺として開山されたのでした。

法心七十一歳の時でした。

これが後の瑞巌寺であります。

円福寺を開山して三年後、法心はまた姿を消しました。

なんと青森の七戸の村に行ったのでした。

そこに庵を結んで村の人たちと共に暮らしたのです。七十四歳の老僧には青森の地は寒く、慣れない土地で苦労されたと思われます。

しかしその地でも法心は慕われてお寺を開創されたのでした。

この地方ではいまも「法心さま」と呼んで慕われ、法心祭という祭りが行われていると『法身覚了無一物』の本には書かれています。

更に法心は、故郷の真壁に帰りました。

文永四年、真壁時幹は五十五歳になっていました。

領内に法心禅師が来られていると聞いて、お城に招きました。

法心の高名はことは聞いていましたが、まさかその人がもとの下僕であったとは知るよしもなかったのでした。

法心は三十七年振りに時幹と見えました。

法心は時幹に

「殿は私のことをご存じですか」と聞きます。
時幹は、「知りません」と答えました。

「私は、かつてあなたにお仕えしていた平四郎です」と告げました。

おもむろに法心は下座に下がって、錦の袋から血染めの木履を出して示しました。

こんどは時幹が恐れおののいて下座についてお詫びしました。

法心は、「わたくしが今日あるのはあなたのおかげです。あのことが無ければ今も只の平四郎のままであったでしょう」と告げたのでした。

そこで時幹は、法心のために領内に照明寺という寺を開山させたのでした。

照明寺は今伝正寺となっているとのことです。

法心は、文永十年一二七三年、八十五歳でお亡くなりになりました。

来る時明明
去る時明明
これ箇の何物ぞ、

最後の一句を弟子たちがお願いしましたが、
法心は
喝一喝して静かに亡くなったのでした。

本朝高僧伝には最後のこの一喝は、「旱天に迅雷の轟く如く」であったと伝えられています。

おなじくも履物取りし身の上は
猿は太閤 真壁は国師

と後に詠われた法心禅師のご生涯でありました。

 
横田南嶺

下駄の恩

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