情けは人のためか
『広辞苑』にも
「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。」と説明されています。
そして『広辞苑』にはその後に、
「人に情けをかけるのは自立の妨げになりその人のためにならない、の意に解するのは誤り。」
と書かれています。
今年の三月に出版された、集英社新書の『「利他」とは何か』を読んでいると冒頭にこんな言葉がありました。
「新型コロナウイルスの感染拡大によって世界が危機に直面するなか、「利他」という言葉が注目を集めています。
たとえば、フランスの経済学者ジャック・アタリは、二〇二〇年四月一一日に放送されたNHKの番組「ETV特集 緊急対談 パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~」に出演し、パンデミックを乗り越えるためのキーワードとして「利他主義」をあげています。
深刻な危機に直面したいまこそ、互いに競いあうのではなく、「他者のために生きる」という人間の本質に立ちかえらなければならない、と。
この本の著者の一人である、伊藤亜紗さんが「はじめにーコロナ禍と利他」に書かれています。
なるほど利他は大事だと思いますものの、伊藤さんは、ご自身利他主義についてかなり懐疑的な考えを持っていたと言い、またむしろ「利他ぎらい」といっていいほどだと書かれています。
たしかに、伊藤さんが例としてあげる失明された方の言葉に考えさせられます。
その方は、失明して自分の生活が「毎日はとバスツアーに乗っている感じ」になってしまったというのです。
どういうことかというと、
「『ここはコンビニですよ』。『ちょっと段差がありますよ』。
どこに出かけるにも、周りにいる晴眼者が、まるでバスガイドのように、言葉でことこまかに教えてくれます。
それはたしかにありがたいのですが、すべてを先回りして言葉にされてしまうと、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまいます。
たまに出かける観光だったら人に説明してもらうのもいいかもしれない。けれど、それが毎日だったらどうでしょう。」
というのであります。
あまりやり過ぎると、本人の自立性を奪いかねないというのです。
してあげている方は、親切のつもりで、利他の行いだと思っているのでしょうが、ご本人の為になっていないこともあるのです。
何がその人の為になるのか難しいところです。
本書の中で伊藤亜紗さんは、ジョアン・ハリファックスという人類学者で禅僧である人の言葉
「真の利他性は魚の釣り方を教えること」というのを紹介されています。
魚を分け与えても、放っておけばすぐにまた空腹になってしまうというのです。
それでは利他にならず悪しき依存を生み出すだけだと伊藤さんは指摘されています。
利他は難しいと思っていると、日本講演新聞に十二月六日号の社説を読んで、やはり利他の大切さを思いました。
水谷もりひとさんの社説であります。
水谷さんが、ご自身の講演会で、『和語陰隲録意訳(わごいんしつろくいやく)』という本を紹介したのだそうです。
これは、水谷さんの社説によれば、
「元々は中国・明の時代の袁了凡(えん・りょうぼん)という学者が自らの体験を記した『陰隲録(いんしつろく)』という書があり、それを九州国際大学特任教授の三浦尚司(みうら・なおじ)さんが子ども向けに和訳したものが、それだ。」
というのです。
どういう内容かというと、
「了凡は幼い頃、父親を亡くし、女手一つで育てられた。当時、明には「科挙」という官吏(かんり)登用試験があり、合格すると国の上流階級に座した。」
のだそうです、了凡は何度受けても受かりません。
ある日のこと、了凡は一人の易者に会います。
易者から、科挙に必ず合格して官吏なると予言されます。
さらに官吏になって高い地位に就くけれども、五十三歳で一生を終えると言われます。
そして子どもに恵まれないと言われました。
言われたとおり、了凡は官吏になりました。
ある地方に長官として赴任した了凡は、有名な禅僧を訪ねました。
そして「人生というものは既に運命によって定まっているようですね」と言いました。
禅僧は笑いながら答えました。
「確かにその通り。しかしその運命の通りに生きるのは凡人だけだ。世の成功者と極悪人はそれぞれ善の力、悪の力に引っ張られて、定められていた運命とは違う人生を生きる」
そして「おまえは易者の占いのまま生きてきたのか。だからこの20年何の進歩もしていないんだ」と一喝したのでした。
そして禅僧はある修行をすれば定められた運命を変えることができると言います。
それは
「例えば、「死のうとしている人を引き留め、命を救う」「災害に遭った人を救護したり、重病人を介護する」「公道のごみを拾う」「公共に役立つ寄付や募金をする」等々。」
というのです。
その半面、「暴力を振るう」「人の物を盗む」「人の悪口を言う」など悪行を繰り返すとポイントはどんどん減っていくというのでした。
その後、了凡はひたすら積善の日々を送るようになり、とうとう子どもにも恵まれ、七十四歳まで生きたという話です。
思えばお釈迦様が前世において積まれた善行というのは、利他行でありました。
兎になって生まれた時には、全身を食べてもらうように施したのでした。
王子の時には餓えた虎の為に全身を施したのでした。
自分の心を落ち着けて、悟りを開くというようなことよりも、具体的な利他の行いが、その人を変えてゆくのであります。
やはり利他の行いによって、自分も向上してゆくのであります。
しかし、これまた難しくて、自分の向上の為に利他をしようとなると、それが利己的な行いになってしまうのであります。
つくづくと利他は難しいものです。
それでも坂村真民先生が詠われたように、
一人でもいい
一人でもいい
わたしの詩を読んで
生きる力を得て下さったら
涙をふいて
立ちあがって下さったら
きのうまでの闇を
光にして下さったら
一人でもいい
わたしの詩集をふところにして
貧しいもの
罪あるもの
捨てられたもの
そういう人たちのため
愛の手をさしのべて下さったら
という気持ちは失いたくないものです。
横田南嶺