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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.12.10
今日の言葉

千の手の意味

PHPの一月号が届きました。

昨年の一月号から連載を始めて一年が終わり、また新たな一年を迎えることになります。

連載「心に禅語をしのばせ」も十三回目になりました。

今月の言葉は「大悲千手眼」であります。

この言葉のもとになるのは、『臨済録』にある臨済禅師と麻谷禅師との問答であります。

岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳を参照しましょう。

ある日、師は河北府へ行った。そこで知事の王常侍が説法を請うた。師が演壇に登ると、麻谷が進み出て問うた、「千手千眼の観音菩薩の眼は、一体どれが正面の眼ですか。」
師「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが正面の眼か、さあ、すぐ言ってみよ。」すると麻谷は師を演壇から引きずり下ろし、麻谷が代わって坐った。

師はその前に進み出て、「ご機嫌よろしゅう」と挨拶した。

麻谷はもたついた。師は麻谷を演壇から引きずり下ろし、自分が代わって坐った。
すると麻谷はさっと出て行った。そこで師はさっと座を下りた。

という問答なのです。

よく訳の分からないことを禅問答のようだと言われますが、この問答もご多分に漏れずというところでしょうか。

この問答を山田無文老師が、どのように提唱されているのか、禅文化研究所発行の『臨済録』を参照します。

「こういう上堂である。

実に見上げた達人と達人との、名優と名優との踊りを見ているようなもんだ。

実に立派な上堂である。

古人は、この上堂が臨済録の眼目だ、この上堂が分からんと臨済録は分からん、と言うておる。

臨済といい麻谷といい、実に優れた力量を持って遊戯三味だ。

自由自在の働きをしておる。

賓主互換、ある時は主となり、ある時は賓となり、お互いに相手の境地にいつでもなり得る。

こういう境地が分からんというと、臨済録は分からん。

悟りを開いた者は、みんな同じ境地に入るのだ。」

と説かれていますが、見事だ、見事だと言われてもどこが見事なのか、分かりにくいかと思います。

無文老師は

更に「俺がおまえで、おまえが俺だ。そういう境地が分からんというと、臨済禅は分からん。」と説かれます。

そして、

「社会も世界もそうだ。いつでも相手の立場になってやれる境界がないというと、円滑にはいかん。

自分の立場ばかり固執しておるようでは、世の中、円満にはいかん。

いつでも相手の立場に代わってやれる。

社長はいつでも社員の立場になれる。

社員はいつでも社長の立場になれる。

主人はいつでも奥さんの立場になれる。奥さんはいつでも主人の立場がよう分かる。そうお互いが理解できれば、社会生活は円満に行くのである。」

と具体的に説いて下さっています。

こう解説していただくと、分かりやすいものです。

お茶でも亭主は、お客の立場になっておもてなしをしますし、お客になれば亭主の身になって、おもてなしをいただくものであります。

無文老師が説かれている説教師さんの話がおもしろいものです。

説教師というのは、本山から地方のお寺に派遣されて、お説法をするお坊さんのことです。

「天龍寺の説教師がよう言うておった。説教に行ったら、婆さんが前におって、一生懸命居眠りしよるから、

「婆さん、婆さん、わしが一生懸命しゃべっておるのに、おまえさん居眠りばかりしておるが、話というものはそう生易しいものではないぞ。一ぺん話す身になってみなされ」

こう言うたら、婆さんが、
「説教師さん、そう言いなさるけど、一ぺん下に降りて聞いて見なはれ。あんたの話なぞまともに聞いておれますかいな」
と言いよったということじゃ。

お互い、いつでも相手の立場になれる自由というものを一つつかんでおかんといかん。」

ということであります。

身につまされる話であります。

私なども、こちらは一所懸命に話しているのにと思うことがありますが、坐って聞いている身になってみれば、眠たくて仕方がないということでありましょう。

さて、大悲千手眼というのは、千手千眼の観音様のことであります。

あの有名な清水の観音様は千手観音様でいらっしゃいます。

岩波書店の『仏教辞典』には

「千の慈手・慈眼をもってあまねく衆生を済度するという変化観音で、六観音の一つ。<千手千眼観(世)音><大悲観(世)音>とも称し、その救済力のすぐれたところから蓮華部の王<蓮華王菩薩>とも呼ぶ。」

と解説されています。

千手観音様には、千本の手があり、それぞれの手に千本の眼がついています。

一見すると奇妙な姿ですが、なにを表しているのでしょうか。

詩人の坂村真民先生は、目の見えない子が書いたお母さんの絵を御覧になって千手観音様の実在を知ったと言います。

目の見えない子供の描いたお母さんの絵には、なんと何本もの手が描いてあったそうなのです。

目の見えない子にとって母というのは、まさしく手であったのでしょう。

いつもご飯を食べさせてくれる手、着替えをさせてくれる手、どこへ行くにも引いてくれる手、たくさんの手を画いてお母さんを表したのです。
 
私たちも、思えばいくつの手をかけてもらって今日まで生きてきたのでありましょうか。何本描いても描ききれません。

千本どころではないのです。

千の手には千の眼があるというのは、いつも見守られていることを表します。

親は子のことをいつも見守ってくれています。

そして私たちは、そのようにいつも見守ってくれていることを感じると、困難な時に出遭っても、よしがんばろうと、生きる力を得ることができます。

千の手をかけてもらったことに気がついたならば、今度は自らが千の手になって人の為に尽くしてゆこうと思うようになります。

そこを真民先生は自分も困っている人の為に手が欲しいと詠われたのであります。

千手観音様について、一口法話で語ったこともあります。

その動画の中で真民先生の「手が欲しい」という詩の全文も紹介していますので、こちらもご参照くだされば幸いであります。

 
横田南嶺

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