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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.11.01
今日の言葉

秋の空、秋の雲

十一月になりました。きれいな秋の空になりました。

「竹、密にして流水の過ぐるを妨げず、山高うして豈に白雲の飛ぶを礙えんや」という禅語があります。

竹がどんなに密集していても、そこを水は流れてゆきます。水の流れは、竹に妨げられることはないのです。

山がどんなに高く聳えていても、白雲は悠々とその上を飛んでゆくのです。

山が、雲の邪魔になることはありません。

何ものにもとらわれない心境を詠っています。

『般若心経』には「無罣礙」という言葉が出て来ます。

私たちの身体と心を構成する五つの要素、五蘊が空であるとみることができれば、心に何もひかかるものはないということです。

「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」

という和歌の通りなのです。

竹や山というのは、現実に起こる様々な問題だと見てもいいでしょう。

いろんな事が起こるのがお互いの人生であります。

どんな事が起こったとしても、そこに心がとらわれずにさらさらと水のように流れてゆきたいものです。

悠々と雲のように、ゆきたいものです。

大ぞらを静に白き雲はゆく
静かにわれも生くべくありけり

とは相馬御風の和歌であります。

しかしながら、心が水のようではなく、大きな岩のような塊であると、竹が密集しているところを通れません。

ひかかってしまいます。

我の強い、頑なな心では、さらさらと流れてゆくことはできないのです。

静かに雲のようにゆくことができないのです。

外に起きてくる問題だけではありません。

私たちの心には様々な思いが浮かんできます。

「五蘊」というものが自己の姿であります。

五蘊は色受想行識の五つです。

色は肉体であり、そこに感覚器官が具わります。

目や耳があるのです。

その目や耳に、何らかに刺激が与えられます。

嫌なものを目にする、嫌なことを耳にするのです。

それを目や耳が、感受します。これが「受」です。

すると、心地いいなとか嫌だなと思います。これが「想」です。

嫌だなと思うと、更にその思いが強くなっていって、あいつに何とか仕返ししてやろうとまで思ってしまいます。

気に入らないという思いから、更に思いが強くなって憎しみへと形成されてゆくのです。

この形成するはたらきを「行」と言います。

その結果、あの人は嫌な人だ、悪い人間だ、どうしようもない人間だと自分で認識を作ってしまうのです。これが「識」です。

そのようにして、外に世界に対して自分中心な物の見方で世界を色づけてしまうのです。

これが迷い苦しみの様子です。

一つの思いが沸き起こると、また更にその思いが新たな思いを形成してゆくのです。

だんだん増幅されたりします。

しかし、どんなにいろんな思いが起きたとしても、心の本体には、まったく差し障りはないのです。

よく坐禅して雑念が湧いて仕方ありませんと言われますが、「竹密にして流水の過ぐるを妨げず」でどんなに雑念があろうとも、少しも心は困ることなく流れてゆけるのです。

「山高うして豈に白雲の飛を礙えんや」どんなに大きな念があったとしても、そんなものは妨げにはならないのです。

曹洞宗の藤田一照さんは、よく「長空、白雲の飛ぶを礙(さ)えず」という禅語を用いて説かれています。

これは「竹密にして流水の過ぐるを妨げず、山高うして豈に白雲の飛を礙えんや」という禅語によく似ています。

長空は白雲が飛ぶのを邪魔しないという意味です。

白雲がどんなに飛ぼうとも、大空は、それにとらわれることもなく、また邪魔もしないという、大らかな心をもっているという意味です。

以前、一照さんから頂戴した曹洞宗北信越管区教化センターの講演録(平成二八年度北信越管区教化研修会講演)を参照しますと、

一照さんは

「普段は、浮かんできた思量の中身、「あいつがこう言った」とか、「こういうことが起きたらどうしよう」というような過去や未来に関わる思量の内容、コンテンツのほうに引きずられて、それをどんどん膨らませていって、長空を完全に見失っている。雲の中に頭を突っ込んでしまっているからです。長空から雲が浮かんでくるという全体像を忘れて、見失ってしまっているという状態になっている。坐禅の時は、長空のなかに白雲が自由に浮かんでは消えている状態になっています。思考にとってはあたりまえの状態がそこに現れているわけです。思考がその正体をあらわにしている。それを邪魔しないということです。」

と解説されています。

そのことを頭で考えて理解するだけではなくて、身体と呼吸を調えることによって、自ずからそのようになるのだと説かれています。

盤珪禅師もまた同じようなことを説かれています。

盤珪禅師は鏡でたとえられました。

雑念がわいてしょうがないという人に対して、念は鏡に映った像なのだから、どんなものが映っても鏡の本体は汚れもしないと説かれました。

まして仏心は鏡の万倍も明らかなものであって、どんなに念がわいても妨げにはならない、みな仏心の光りのなかに消えてゆくのだと説かれているのです。

こういう道理は理解できても、実際に我が身の上において深く納得することは難しいものです。

そこで、身体と呼吸を調えて、坐禅をする必要がございます。

正岡子規に、

「見渡すや只秋の空秋の雲」

という句があります。

秋の空、秋の雲をながめては、心は空のようなもの、いろんなことが起きるのは雲のようなものだと思ってみるのもよろしいでしょう。

 
横田南嶺

秋の空、秋の雲

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