心の眼を開くには
バックナンバーからの転載なのです。
落語家の三代目林家菊丸さんの話です。
少し引用させてもらいます。
東北地方にある村の、1000人ぐらい入る立派なホールに呼ばれました。その日は冬の大雪の日でした。
開演時間になり舞台の袖から客席を覗くと、お客さんはわずか3人でした。
主催者の方が、「大雪で出足が遅いんです。開演時間を30分遅らせてもよろしいですか?」と言われました。
30分後、幕が上がるとお客さんが2人に減っていました。広い会場におじいさんとおばあさんが、端と端に座っていました。
私が落語を始めると、新しいお客さんが5人くらいドドドッと入ってきました。
「やっぱり出足が遅かったんだ。これからたくさんお客さんが来るのかな」と喜びました。
でも実はその方々はおばあちゃんのご家族で、「家で急用ができた」と言っておばあちゃんを連れて帰ってしまったのでした(笑)。
残るはいよいよおじいさん1人になりました。
広い会場で1対1です。これ、やるほうもつらいですが、聴くほうはもっとつらいです。
おじいさんは「えらいとこに入ってきてしもうた」とずっと下を向いて聴いておられました。
という話であります。
読んでいても笑ってしまいます。
落語家さんもいろんな苦労をなされるのだと改めて思いました。
しかしながら、記事の最後にも「まぁとにかくつらい経験、面白い経験、いろいろありますが、すべてネタに換えていきながら、前向きに落語をさせてもらっています。」と書いていらっしゃました。
そのようないろんな体験を話の種にしてゆくのだと改めて感服しました。
こんな話を読んで、ふと思い出したのが、山本玄峰老師と松原泰道先生のお話であります。
玄峰老師は、私の故郷の熊野のお生まれです。
筏流しや樵夫の生活をなさっていて、目を患って失明を宣告されてしまいます。
その後四国遍路をなさっていて、その途中で出家されたのでした。
坐禅一すじの修行を貫かれて晩年は妙心寺の管長にもなられました。
そんな玄峰老師は、当時まだお若かった松原泰道先生を連れて、布教にまわられていたのでした。
若い松原先生を引き立てようとして、玄峰老師は、ご自身の話の時間を短くされて、「わしの話はいいから、松原の話を聞いてくれ」と仰っていたのでした。
そんな頃の話です。
戦後まだ間もない頃、あるところで千人も収容できる、当時としては珍しい大ホールができて、そのこけら落としに玄峰老師の特別講演会が企画されました。
例によって玄峰老師は、松原先生を連れてゆかれ、ご自身はほんの数分挨拶をしたのみで、「あとは松原の話を聞いてくれ」と壇を降りられました。
そして松原先生が講演をなされました。
講演が終わって玄峰老師は松原先生を控え室に呼ばれました。
その日は折から台風が直撃して千人入るホールにたった五人しか聴衆がいなかったらしいのです。
玄峰老師は松原先生に言われました。
「ワシは目がよく見えないから分からなかったが、今聞くと今日の聴衆はたったの五人だったらしいな。ワシもすみで話を聞いていたが、あなたの話は千人の時も五人の時も少しも変わりはしない。えらいもんだ。できんことだな。」と褒められました。
そのとき松原先生は、「はい、私はたとえ聴衆が一人でも話を致します」と答えたのです。
そうすると玄峰老師はすかさず「では、その一人がいない時はどうする」と詰問されました。これが禅の問答です。
松原先生はさすがに「私も誰もいなければ話は致しません」と答えました。
すると玄峰老師の雷が落ちました「バカモン、禅宗の坊さんなら誰がいなくても坐禅する、お念仏の者は誰がいなくてもお念仏をする。おまえさんも誰がいなくても話をしろ。」と言われたのでした。そしてその後「しかしな、誰も聞いていないと思うなよ、壁も柱も聞いておるでな」と仰ったというのです。
松原先生は、この一言で布教の眼を開かせてもらったと仰せになっていました。
玄峰老師は、四国遍路の途中のお寺で、「お坊さんになりとうございます」と願ったのでした。
そのお寺の和尚は若き玄峰老師を見込まれたのか、「お前はそうなる人間だろう」と言いました。
玄峰老師は、「しかしご覧の通り私は目も見えず、字も知らずお経も読めません。こんな人間でもお坊さんになれましょうか。」と問います。
和尚は「親からもらった眼は老少不定でいつの日にかは見えなくなる、しかし心の眼が一度あけばつぶれることはない。おまえさんの心眼はまだあいておらぬが、あく気になればあく、死んだつもりになってやれば、ほんとうの坊さんにはなれるよ」とさとされたのでした。
その言葉通りに玄峰老師は、修行され心の眼を開かれたのでした。
心の眼を開くということは容易なことではありません。
心の眼を開けば、壁も柱も聞いていることがわかるのでしょう。
ではどうしたら心の眼が開くのでありましょうか。
玄峰老師のお言葉から学んでみます。
「少しの善行でも行いたてまつって少しでも人に迷惑をかけんようにし、紙切れ一つでも感謝の念を払う、そのようにして善業を積んでいく。念起こるこれ病い、継がざるこれ藥というが悪い念をちょっとでも起こす。憎しみを起こしたり、人の悪いことをちょっとでも思ったりしてもああ申し訳ないとその場その場で反省する、人間じゃから、あいつはきらいなやつじゃと思ってもその場であやまっておくんじゃ。死にしなの今になってあやまっても、それはあやまらんよりはいいけれども、死に際に何ぼううまいこというてみたところで、もう取り返しがつかん、平生の心得というものが非常に大切じゃ。」
というように常にこのような心で暮らしてゆくことが、心の眼を開く土台になってゆくのです。
日常に些細なことに気を配ってゆくことが大切です。
横田南嶺