分からぬことの尊さ
そして、分かるまで頑張りましょうということになります。
こういうことを何年も何年もくり返していると、誰しも、分かったということがよいことであり、分かりませんということはよくないことだと思います。
いや、思い込まされると言った方がよろしいように思います。
まず、分かると言うことが本当によいことで、分からないことということがよくないことなのか、そもそも疑うこともしないでしょう。
それくらい、分かることが大事だと思い込んでいます。
その結果どうなるかというと、分かったような気になってしまっているのが実情ではないかと思います。
分かっていることと、分からないことと、もし比べてみたらどうでしょうか。
分かっていることの方が多く、分からないことが少ないと言えるでしょうか?
考えて見ると、私たちの周りは分からないことで満ちあふれています。
今、蝉が鳴いています。
どこから来たか分かりません。
土の中で、何年いたのだと言われていますが、その蝉が本当に土の中に何年いたのか分かりません。
地上でどれくらい生きているのかわかりません。
それどころか、私が分かりません。
いつ生まれたのかも分かりません。
そんなことくらい分かっているだろうと言われますが、それは確かに戸籍に書いていて、親や家族や周りの者もみなそう言っているので、生年月日は間違いないと思っていますが、本当に分かっているわけではありません。
昨日の自分と今日の自分が同じなのか、分かりません。
なんとなく同じだろうと思って、同じことにしています。
しかし、厳密にはかなり変化しています。
いのちとは何か分かりません。
なんとなく今命があるのだろうというくらいは分かったような気がしますが、いのちはどんなものなのか分かりません。
意識とは何か、これも分かりません。
記憶とは何か、これもよく分からないのであります。
今この身体の中で何が起こっているのか分かりません。
さっき食べたものをたぶん今消化しているのだろうというくらいは想像しますが、ひょっとしたら、身体の中で病気が進行しるかもしれません。
全く分からずに病気になるものです。
死も分かりません。
いつ死ぬかも、死んでどこにゆくかも、死とは何かも分からないまま、何か分かったような気になって生きているものです。
このように考えると、私たちの周りは分からないことに満ちあふれ、その私自身も分からないのですから、分からないことばかりなのであります。
もし、これが悪いことで、分かるまで頑張れなどと言われたら、とてもではありません。
そうであれば、考え方を変えることだと思います。
分からないことはよいことだ、すばらしいことだ思うのです。
だいたい、分かることがよい、分からないことが駄目ということ自体が思い込まされているだけですから、逆に思い込んでも悪いことではありません。
分からないことはすばらしいと思えば、私の周りも私自身もすばらしいことに満ちあふれていることになります。
その方が幸せなように思います。
仏教、とりわけ禅では分からないこと尊びます。
今北洪川老師の語録に、
「大慧禅師曰く「不知則如金、知則如屎」」という言葉があります。
大慧禅師は、不知は金のようであり、知は屎のようだというのです。
大慧禅師の語録の本文を参照しますと、
「不會如金。會得如屎」
「不会」は分からないことであります。
「会」は分かることであります。
分からないことが金で、分かることが屎だというのであります。
それほどまでに、分からないことがすばらしいのであります。
達磨大師から六代目の法を受け継いだ六祖慧能という方がいらっしゃいます。
六祖の語録である『六祖壇経』に、こういう問答があります。
六祖が教えを受け継いだのが、五祖禅師であり、黄梅山に住していました。
ある僧が六祖に聞きました。
黄梅の仏法は誰が受け継がれたのでしょうかと。
六祖は答えました、仏法を会得した者が継いだのだと。
では、あなたは仏教を得たのでしょうかと聞くと、六祖は、私は仏法を会得していないと答えました。
仏法なんて分からないと答えたのです。
分からないと言った六祖にこそ、真に仏法は伝わったのです。
禅語に「百不知百不會」という言葉があります。
何も知らない愚者を言う言葉ですが、平田精耕老師の『禅語事典』には、
「「不知」はダルマ大師が答えた「不識」と同意語です。これは識らないのではなく、識不識の対立を絶ち、分別意識を超越したところの不識です。「不会」は会得できないとかわからないということです。
ここでは、何も知らない愚者、何事にも役に立たない者は、知不知、会不会、能不能を超越した人に変身するということです。これは二元対立、つまり相対的認識を超えた高次元の絶対的認識の上に位するのです。」
と解説されています。
知る、知らない、分かる、分からないという相対概念を越えた不知であり、不会なのです。
分かったことをよいとして、分からないことは駄目だという相対概念を断ち切ることであります。
平田老師も「私も若い頃に、人間というものを知ろうと、昔から読まれているロシア文学の『イワンの馬鹿』や西洋哲学など、いろんなことを研究してやろうと試みた時期がありましたが、結局知り得たのはソクラテスのいう如く、人間というものはわからない、ということがわかったという究極の無知の世界でした。」と説かれています。
仏の世界は、不可思議なのです。
考えが及ばないのであります。
良寛さんの漢詩に、
我が生、何処より来たり
去って何処にかゆく。
独り蓬窓の下に坐して
兀兀と静かに尋思す
尋思するも始めを知らず
焉んぞ能くその終わりを知らん
現在亦また然り
展転として総ては是れ空
空中しばらく我有り
という句があります。
私たちはどこから生まれて来たのか、死んでどこにゆくの分からないのです。
分からない中にこうして生かされているのです。
分からないことが悪いことでもなく、不安なことでもないのです。
分からないのは、すばらしい、大いなる御仏の世界なのです。
それを空とも申します。
その中に、私たちは、仮の生をいただいています。
すべてを委ねて、任せていけばいいのであります。
分からぬことの尊さを味わいましょう。
そんなわけで、禅とは何ですかと聞かれると、私は堂々と分かりませんと答えるのです。
これは、禅ってすばらしいという意味なのであります。
こんな話はよくわからないと思ったら、それがすばらしいのであります。
横田南嶺